「説明」の周辺(9)

1.

ウィトゲンシュタインの「美学」に関する発言は、彼の講義をG. E. Moore や学生たちが筆記したノート、およびそれらを編集した出版物を通じて知られている。

 それら「美学」に関する発言が記録され残された講義の時期は、1932-33年、1938年夏である。(G. E. Moore, "Wittgenstein's Lectures in 1930-33", 『1932-35講義』,『美学講義他』)

 

以前少し触れたが、それらの「美学」に関する考察は、後に展開されるアスペクト知覚論を準備し養った重要な根の一つではないかと思われる。また、「数学の基礎」が論じられる際に、陰に「美学」の問題との類比が意識されていた節もある。

(ただし、それらの関連の様を解き明かすことは、じっくり腰を据えて取り掛からないと難しい。)

 

 だが、単に後の考察の内容につながっているという理由のみで、「美学」の考察が重要なのではない。

例えば、「美学」に関する考察がアスペクト知覚の考察の道へと通じてゆくとすれば、そしてモンクが言うようにウィトゲンシュタインの方法の目的自体を アスペクトの転換に類比できるならば、「美学」に関する考察の中に既に彼の哲学の根本に通じる洞察が潜んでいるかもしれないのである。

「・・・として見る」経験はすべての知覚の 典型であるわけではない。しかし、その種の経験は、ウィトゲンシュタインには特別な重要性を持っている。それは、単にそれが現象主義の危険を呼び起こすからではない。特定の物事が見られているアスペクトを転換することこそが、彼の哲学の方法の目的である、と言うことができるだろうからである。

(Ray Monk, Ludwig Wittgenstein, p508)

 

ここでは、「美学的説明」という概念に焦点を当て、ごく初歩的な論点の整理を試みる。

重要なポイントはここでも、「因果的説明」と「類比による説明」(「美学的説明」を含む) の区別である。

「美学的説明」においては、因果関係の確認に依らない合意が、説明する者と される者との間に成立する。ウィトゲンシュタインは、フロイト精神分析の実践において、同様の事態が起こっていることを強調している。このこともいずれ触れたい。

 

2.

そもそも、ウィトゲンシュタインが「原因」あるいは「因果関係」との混同を戒めた対象として、3つの種類を挙げることができよう。

①意図的行為の理由

②恐れ、怒り、等の情緒Gemütsbewegungの対象

③美学的説明(⇒因果的説明ではない)

 

 まず、①については、これまでに、行為と理由との関係は論理的つながりであって、経験的に推測される因果関係ではない、というウィトゲンシュタインの主張を見てきた。ただし、この主張を裏付けるほど十分に、理由と原因との違いを実例に即して考察したとはいえない。が、今はこのまま措いておく。

 

②については、『探究Ⅰ』§476 に加えて、次等を参照すること。

情緒のうちで、[何物かに] 向けられたものと向けられていないものとを区別することができよう。あるものに対する恐怖、あるものについての喜び。

このあるものは情緒の対象であって、情緒の原因ではない。

(RPPⅡ148, 野家啓一訳)

楽しさは感覚なのかどうかと問う人は、おそらく理由と原因とを区別していないのだろう。なぜなら、もしそれを区別していたとしたら、あるものを楽しむとは、そのものが原因となってわれわれのうちにある感覚を惹き起こすことではない、ということに想到していたはずである。

(RPPⅠ800, 佐藤徹郎訳、cf. Z507)

詳しく立ち入る余裕はないが、ウィトゲンシュタインが、情緒とその対象の関係についても(意図と 意図の実現である行為 との関係と同様に)文法的関係(すなわち論理的な関係)である、と見なしていることを指摘しておこう。

次の講義では、情緒が ある対象に「方向づけられている」ことと、ある対象が情緒の原因であることとの区別が強調されている。

私が不満の表現と呼ぶものは、不快の表現に加えて不快の原因を知っておりそれを取り除くことを要望すること、なのだろうか?もし私が「このドアは低すぎる。もっと高くしてくれ」と言うならば、私は不快の原因を知っている、と言うべきなのか?

 

「私は不快を感じており、その原因がわかっている」と言うことは、非常に誤解を招きやすい、なぜなら、普通は「原因がわかっている」は全く別の意味で使われるからである。ただし、それがミスリーディングであるか否かは、「原因はわかっている」が説明として言われているか否かに依る。

・・・

「私にはその原因がわかっている」と言うよりも、「私の恐れの感じは方向づけられている directed 」と言うことが勝っているのはどの点でか?

・・・

[感じが”方向づけられている”、と言うことで] いわば文法的説明がなされたのだ。

(LCA, p13-4より、引用のために再構成した。)

 情緒の対象に関する説明が「文法的説明」と言われていること、に注意しよう。

ウィトゲンシュタインの指摘は、後にアンスコムに受け継がれ、『インテンション』での<心的原因(mental cause)>と<感じfeelingの対象>との区別(同書、§10)につながってゆく。

アンスコムは、ヒュームの因果性概念に収まらない、心的因果性(mental causality)の概念を提起している(同上)。この発想も、ウィトゲンシュタインの影響下に生まれたものと思われるが、今は立ち入ることができない。

 

3.

①では、理由と行為との関係、②では、情緒と情緒の対象との関係が、因果的関係ではない、とされた。

では、③の「美学的説明」の場合、何と何との関係が、因果的ではない、とされるのだろうか?それとも、そこでは、何か2つのものの関係とは違った構図が問題となるのだろうか?

これに答えるには、ウィトゲンシュタインの言う「美学」の内容について、改めて確認することが必要となる。(続く)