1.
前回まで、ウィトゲンシュタインが、「理由を述べる」行為を「計算の道筋を示す」行為に類比して把握しようとしていることを見てきた。
「計算の道筋を示す」行為は、実際には(ウィトゲンシュタインの言う)「像」Bild を用いて行われることに注意しよう。
前回、「計算の像」の例として、筆算の図を挙げた。さらなるメタファーとして、装飾図案、ジグソーパズルにも言及した。(筆算の図、装飾図案は、ウィトゲンシュタイン自身が『数学の基礎講義』で実際に提示した例である。)
広い意味での「規則性」の存在が、共通するものとして、これらのメタファーをつないでいる。ジグソーパズルの場合には、図柄のつながり、ピースの形状。
もう少し、筆算の図やジグソーパズルの喩えを用いて考察を試みよう。
(これらの比喩に頼ることには批判があるかもしれないが、あくまでも大雑把な理解のための手段として、割りきって進んで行く。)
まず、筆算の図とジグソーパズルとでは、行為(計算、パズルの組み上げ)の「目的」が、それぞれの像の上で、異なった現れかたをすることに注意しておきたい。
筆算においては、求める結果は、最下段の数字として現れる。それに対し、ジグソーパズルでは、求めるものは全体の図柄として現れる。
2.
以前、ウィトゲンシュタインの「理由」に関する見解への疑問として、3つほど挙げた。
その一つとして、次のように述べた。
② 自分の意図的行為の理由を説明する場合に、それまでの道筋でなく、その行為が実現しようとする将来の目標を述べること(すなわち、意図を述べること)がむしろ普通である。
だが、「それまでの道筋」だけでなく、「これからの道筋」をも考慮に入れるなら、意図の陳述も、「計算を示すこと」のメタファーの中に取り込むことができるだろう。
つまり、意図の陳述が理由の説明になるのは、それによって「これからの道筋」が聞き手に容易に了解される場合、である。
「明日、そちらに寄るよ。」
「また突然に、どうして?」
「シンガポールに行くのでね。」
「私」は、関西国際空港の所在、シンガポール便の発着、その他諸々のことを知っているので、友人の言葉を、理由の説明として容易に了解することができる。
逆に、それらのことを知らない人であれば、「シンガポールに行く」ことを「泉佐野市に寄る」理由とは受け取れないかもしれない。
3.
「明日、泉佐野市に寄る」と述べることは、ジグソーパズルの一つのピースを示すことに喩えられる。
その理由を問われて、意図するところ(シンガポールに行く)すなわち、目的を述べることは、ジグソーパズルの全体像を示すことに喩えられよう。
これに対して、前回に見た例にもう一度戻ってみよう。
B夫妻は、毎年正月に自宅を訪問してくる甥、姪、計5人に、お年玉をあげる習慣である。小学生には3千円、中学生には5千円与えることになっていた。
夫「今年のお年玉が、2,3000円もかかったのはどうして?」
妻「みんな大きくなってね、今年は中学生が4人になったのよ」
この場合、「ジグソーパズルの全体像」あるいは、「筆算の図の最下段の数字」が、「2,300円」として予め把握されており、それに対し、要となる「ピース」あるいは「数字」が、「中学生が4人」として提示される。
次の場合も同様であって、
A氏は普段、自動車を運転して出勤していた。
ある朝、上司に「君、どうして遅刻したの?」と聞かれて、
「駅前通りが渋滞していたんです」と答えた。
「駅前通りの渋滞」は、諸々のピースからなる「A氏の遅刻」という全体像の中で、それが与えられれば全体像を容易に組み立てることが可能な、要となるピースの地位にある。
(しかし、「2,300円」や「A氏の遅刻」は、結果と呼ぶこともできよう。そして、「4人」や「駅前通りの渋滞」を原因と呼ぶことも。)
反対に、「シンガポールに行く」例は、ジグソーパズルの1ピース(「明日、泉佐野市に寄る」)が眼前にあり、それがどのような完成図(「シンガポールに行く」)の部分であるのかが示される。(意図による理由説明)。
前者は、全体像が与えられて、その要となる部分を示す。後者は、与えられたものが、いかなる目的(全体像)のための手段であるかを示す。
つまり、「理由」と「理由づけられるもの」の組み合わせは、<部分ー全体>関係、あるいは<手段ー目的>関係に立っている。「全体」「部分」のどちらが「理由」として問われるかは固定されていない。
(<部分ー全体>関係 と <手段ー目的>関係は、決してイコールではないが、しばしば、同一の事象の説明に適用される。そして、しばしば、<原因ー結果>関係も。)
4.
さて、ここまでの話しで重要なことをもう一つ指摘しておこう。
「計算」の比喩から出発して、「理由づけ」の機能を、<部分ー全体>関係、あるいは<手段ー目的>関係、あるいは<原因ー結果>関係の中に位置づけるはたらき、として見てきた。
(「理由づけ」の機能がそれらに尽きるかどうかは今は問わない。)
「理由づけられるもの」が「一つのピース」(「明日、泉佐野市に寄る」)である場合、つまり「手段」や「部分」である場合、そのように「理由づける」ことは、「理由づけられるもの」を新たなコンテクストの中に置いて見せる行為である、と言える。すなわち、解釈である、と。
以前、「・・・として・・・を見る」という形の言表と「・・・の目的で・・・する」形の言表との比較 について言及しておいた。その後長い軌道を描いてきたが、<手段ー目的>関係と「解釈」の問題が浮上してきた今、再度そのテーマに近づいた感じがある。
しかし、その前に、「美学的説明」の問題、imperfective aspect の問題がどう関わってくるのか、等について触れなければならない。