「説明」の周辺(6):記述、比較、正当化

1.

前回予告したように、説明における、事実と「理念型」(範例) の関係がもたらす問題について、主にウィトゲンシュタインが触れている範囲で取り上げてみる。

 

理由を挙げることは、時には「私は実際にこの道を歩んだ」ことを意味するが、時には「私はこの道を歩むこともできた」ということを意味する。すなわち、時にはわれわれの言うことが正当化のためであって、実際になされたことの報告ではない場合がある。たとえば、わたしはある質問に対する答えを思いだす場合。すなわち、なぜそういう答えをしたのかと問われ、その答えに至る過程を、実際には通り過ぎなかったのに、述べる場合。 (LCA,p22)

 このように、特に正当化が絡んだ説明において、事実と「理念型」との食い違いが表面化する。

 人が為したこと、言ったことの理由を述べることは、その行為に至る道程を示すことを意味する。ある場合には、自らが歩んだ道を話すことであるが、別の場合には、ある受け入れられた規則に合致する、そこに至る道筋を描写することである。(BBB, p14)

(正当化と「規則に合致する」こととの関連が示唆されていることに注意しよう。)

さらに、前回引用した、

<私が、ある人に紙片を指さして「私はこの色を”赤”と呼ぶ」と言う。その後に「私の前に、赤い色を描いてくれ」と命じる>場合を例にして、次のように述べられている。

「私の命令を実行するのになぜこの色を描いたのか」と尋ねられた時に、その特定の色合いを選ぶまでに至った実際の道筋を描写する、という場合もあるだろう。

例えば、彼が「赤」の語を聞いて、私が彼に与えた「赤」と記されたサンプルを取り上げ、それを写してその色を描いたのであれば、彼の答えは実際に取った道を描写することだといえる。

他方、彼は「自動的に」、あるいは記憶のイメージによって描いたのだが、理由を求められると 例のサンプルを指して自分の描いたものはそれと同じであることを示す場合もあろう。この場合の理由とは第二の種類のものである。すなわち、事後の正当化 justification post hocに他ならない。( BBB, p14)

 

 2.

後の方の例は、前回みた、"singular causal explanation"などの例と対照的である、と言えよう。

上の例は、正当化のために、「完全な道筋」または「理念型」(範例)が、(実際には辿られなかったにもかかわらず、)描出される。(「事後の正当化」)

それに対して、前回に見たいくつかの例では、点景的な描出が提示され、「完全な道筋」の描出と同等に機能する。

 

3.

正当化の文脈が介在することで、事実の代わりに「理念型」が、あたかも実際に生じたことであるかのように描出される。その典型的な例が「意味の説明」の場合である。

ある人物についての思考や言表と その人自身との結びつきは、例えば「スミス氏」という語の意味を説明するために、その人を指さし、「スミス氏だ。」と言うときに作られる、と述べた。

この結びつきには、何も神秘的なものはない。つまり、スミス氏が実際にはここにいない場合でもわれわれの心の中に彼を呼び出すような奇妙な心の働きなどはないのである。

結びつきがこのようなものであることを見えにくくしているのは、日常言語の特定の表現形式である。それによって、思考(もしくは思考の表現)と 思考された事象との関りが、思考の行為の間ずっと存続していなければならないように見えるのだ。

( BBB p38) 

 ここで言われている「思考」の代わりに「意味する」を考えてみれば、ウィトゲンシュタインが言わんとすることはより明確になるだろう。

われわれは「スミス氏」の行状に関する、長い一連の文章(「彼は・・・した。彼はまた、・・・した。次に彼は・・・」)を渡されて読み上げることができる。そのあとで、「君は、”彼”で、常にスミス氏を意味していましたか?」と聞かれて、イエスと答える。しかし、そのことは、読み上げる際中ずっと、スミス氏を意識に上らせて行う特定の心的な働きが起こっていた、ということを意味しないだろう。

(このような食い違いは、哲学の場で犯されがちな間違いとして、ウィトゲンシュタインがよく取り上げたものの一例である。)

 

重要なことは、ここで「意味する」が事実の記述というよりもむしろ正当化の文脈ではたらいていることである。「説明」は、ただの事実を述べるように見えながらも、実際には正当化の働きに眼目がある場合があるのだ。

(記述的使用と、正当化的使用はいかに区別されるのか?区別は常に決定可能なのか?この二つの使用は、以前取り上げた「2つの使用」に重なるのか?「証明」は正当化的使用の一種か?等は、これから検討しなければならない問いである。)

 

4.

体験の記述の文脈と行為の正当化の文脈。双方で、「意味した」の主張可能性が異なる場合があること。ここまで、そのことを確認した。

確かに、これは「意味する」のような心的な行為で起こることで、例えば「ラーメンを食べる」という行為の場合、事実としては「ラーメンを食べていない」ものの、行為を正当化する場面では「ラーメンを食べた」と主張してよい、などということは考えられない。

(※ただし、次のような可能性を考えよ。

例えば、偽札をそれと知らずに使用して支払いをした場合、事情によっては、正当に「支払いがおこなわれた」と見なされる場合がある、かもしれない。)

 

しかし、「意味する」のような「心的行為」に生じる問題に似たことが、「として見る」のような「知覚」の場合にも生じることにウィトゲンシュタインは注目する。

それゆえ、わたくしは、うさぎ-あひるの頭をはじめから単純に画像のうさぎとして見ることができたであろう。すなわち、「これは何か」とか「あなたはそこに何を見るか」とか問われたなら、わたくしは「画像のうさぎ」と答えたことであろう。(・・・)

わたくしは、「あなたはそこに何を見るか」という問いに対して、「わたくしはそれをいま画像のうさぎと見る」とは答えなかったであろう。わたくしは端的にその知覚を記述したであろう。わたくしのことばが「わたくしはあそこに赤い円を見る」ということであったような場合と全く同様に。―

それにもかかわらず、他人はわたくしについて「かれはこの図を画像のうさぎと見ている」と言うことができたであろう。(PPF 120-121, 藤本隆志訳)

 

そして私がその図形を「F」以外のものとして読んだことがなく、それが一体何であるか考えたこともないとき、ただしその図形を違ったふうに見ることもできるのを人が知っているときに、人は私がそれをFとして見ているというのである。( RPPⅠ1, 佐藤徹郎訳)

本物の顔、あるいは絵に描かれた顔について「私はいつもそれを顔として見ていた」と言ったとしたら奇妙なものであろう。しかし、「私はいつもそれを顔だと思っていた。それを何か別のものとして見たことは一度もない」と言う場合はそうではない。(RPPⅠ532, 佐藤訳 )

私が誰かと「F」の活字を前にしているとき、「私は、これを「F」として見ている」と発言することは奇妙であろう。

しかし、これらの例において、背後に正当化比較の文脈を想定すると、それによって「・・・として見ている」という発言、描出は自然なものとなる。

いや、範例Paradigmaは絶え間なく私の念頭に浮かんではいない。―しかし、私がアスペクトの転換を記述する場合、それは範例の助けによってなされる。(RPPⅠ523)

また、ここでも「注意」そして「持続」や他の時間的様態との関りが問題となってくる。

「私はいつもこの文字を気むずかしい顔つきをしたものとして見ていた。」ここで人は次のように問うことができる。「それがいつもそうだということは確かなのか。つまりその気むずかしさはいつも君の注意をひいていたのか」と。

ではこの<注意をひく Auffallen>ということについてはどうか。それは一瞬のうちに起こるのか、それとも持続するのか。'(RPPⅠ526-527, 佐藤訳)

(cf. RPPⅠ537)

次のような「遡及的決定」の問題も持ち上がってくる。上で「事後の正当化」と呼ばれた例に注意。

 一見すると問題は次のようなことであるように見えるだろう。誰かが Ŧ という文字はTに横棒を付け足したものとして見ることもできることに思い当たる。その人は「いま私はそれをTにこれこれしたものとして、そして今度はふたたびFとして見ている」と言う。ここからいま述べた第二の場合には、彼は自分が[それをTと横棒として見るという可能性を]発見する以前にいつも見ていたようにその文字を見ているということが帰結するように思われる。―したがって、もしも「いま私はそれをふたたびFとして見ている」と言うことが有意味だとすれば、相貌Aspektsの変化が起こる前に、「私はこの Ŧ という文字をいつもFとして見ている」と言うことも有意味だったはずだ、ということがそこから出て来るように思われる。

(RPPⅠ539, 佐藤訳, cf. PPF189, LWPPⅠ662 )

5.

以上から、簡単にではあるが、次のことを再度確認しておこう。

「・・・を意味する」、「・・・として見る」のような言い回しは、「体験の描出」であることが可能な一方で、比較正当化のための言い回しとしても機能することができる。(それらは往々にして「説明」のカテゴリーに属する言表である。)両方の役割を同時に果たす場合もある。

「意味する」「として見る」が比較や正当化のために言及されるが、実際に体験されたわけではない場合が存在する。

(cf. BBB p180)

したがって、「意味する」「として見る」等の体験への関心は、そのような使用のヴァリエーションの広がりに応じて、様々でありうる。

(このことは以前触れた。cf. 「アスペクト知覚と能力」「「気づく」と「見る」」)

(ここでも、さまざまな使用が登場する言語ゲームを、皆一様であるかのように解釈するのは混乱の元である。)

それらの使用のヴァリエーションには、時間的様態(閃き、持続、傾向性、ctc)と

「注意」の問題が絡んでいる。

 

 6.

このような、体験事実と説明に登場する事実との食い違いの問題は、以前取り上げた、「生理学的メカニズム」と「言語ゲームのステップ」との食い違いから生じる問題にも類比できることに注意しておこう。