動態動詞ル形の用法について(14)

1.

「見える」を使った、下のような可能動詞文・自発態の文は、「特定の主体or一般的な主体が見る」という事象or可能性、の他に、「見られたもの」すなわち、ある志向的な視覚対象/内容、を表現している。

空に虹見える。(志向的対象:虹)

私には、空が紫見える。(志向的内容:空が紫だ)

明日の正午、鉄橋の近くへ行けば、SLが走るのが見える。(志向的内容:SLが走る)

同様な可能動詞文・自発態文は、他にも、

コジュケイの鳴き声は、”チョットコイ”聞こえる。

彼は、彼女の為を思ったからこそ、つれない態度をとったのだ、思える。

などが挙げられる。

山岡政紀は、志向的内容を表す語句を伴う、これらのの可能動詞文・自発態文の中で、ト格およびニ格の名詞句、ト型補文節をとるものについて、<内容格 Content>という概念を用い、可能動詞文の中の[認知可能]というカテゴリーを設けて考察している(山岡「可能動詞の語彙と文法的特徴」p13~)。つまり、上の5つの文の内、2,4,5番目が<内容格>を持つ[認知可能]文である。

上の例では、「紫に」「”チョットコイ”と」といったニ格名詞句やト格名詞句、および「彼女の為を...態度をとったのだ、と」等の補文節が<内容格>として含まれている。<内容格>とは、〈内容〉という意味役割を担う語句について、一つの「意味格」として名付けた、ということであろうか。

(※当ブログが言語学に不案内なためか、<内容格>という用語には他所で出会ったことがないが、この用語が一般的なものであるのかどうかは、ここでは問題にしない。また、文における構造的位置が異なるため、ト格等の名詞句と補文節を、並べて<内容格>と呼ぶことには問題がありそうだが、ここでは便宜的にそう呼んでおく。)

山岡が挙げている例文は、次のようなものである。

汚い字だが、よく見ると「遺言状」と読める。

カシオペア座はWの形に見える。

西側の山の明るさは火事によるものとわかる。

(山岡、p13-4)

このように、山岡は「見える」「聞こえる」の他に、「読める」「わかる」「言える」「とれる」「思える」などの動詞をここに加えている(p14)。

また、次のような構文の中の、「形容詞ク形」や「動詞テ形」も<内容格>と認める(cf. p23)。

山々の新緑が美しく見える。

山が光って見える。

(※ニ格名詞句の<内容格>には「形容動詞ニ形」も含まれていようが、議論の大筋に関係しないので、その検討には立ち入らない。)

注意すべきは、「(名詞+ガ)見える」や「(補文+ノガ)見える」という構文の、 (名詞+ガ)や(補文+ノガ)は、<内容格>とはされていないことである(上の1,3番目の例文)。この違いが、(例えば)テイル形の共起の有無に現れることは下で見る。

山岡が、どのような意図で、このような区別に至ったのかは、論文からは読み取りにくい。この区別の持つ意味は、今後徐々に明らかにして行きたい。

 

<内容格>を持つ可能動詞文・自発態文は、2024-03-14 で取り上げた<知覚表出><心理的表出>や<属性叙述>の機能を持つル形構文の一種と見ることもできる。それはここまで挙げた例文の使用される現場を具体的に想像してみると分かることだが、ここでは説明する余裕がない。

一方、これらの動詞は、ル形で現在の事象を表す用法を持つと共に、タ形で過去の事象を表すこともできる。

汚い字だが、よく見ると「遺言状」と読めた。

西側の山の明るさは火事によるものとわかった。

これも改めて論じる必要があるが、[認知可能]の文の多くが「実現された可能」をあらわすこと、一般に認知内容は、認知的行為が完了された後にも保持され通用すること(認知内容の持続性)に注意しておきたい。上の例では、「”遺言状”と書かれている」「西側の山の明るさは火事のせいであった」ことは、発話時点にも通用する、妥当性のある事実なのである。こういった特徴ゆえに、[認知可能]文の多くで叙想的テンス的用法が可能となるであろう。これについては、すぐ下で触れる。

 

これらの、ル形で現在を表す用法は、一般には、話者または不特定の主体に対しての[認知可能]や「自発」的に生じる認知活動 を表す。「~には」で<経験者格>を明示することも可能であるが、一人称以外の人称の場合は、(一般的なテクストにおいては)感情形容詞等と同様の人称制限(cf. 2023-12-27)がかけられることになる。

私には、「遺言状」と読める。

*彼には「遺言状」と読める。

私には判然としないが、彼には「遺言状」と読めるらしい。

*君には「遺言状」と読める。

君には、これが「遺言状」と読めるのかい?

以上のテンス的特徴、人称制限の存在において、<内容格>を持つ文は、2024-03-08 で取り上げた「感情や内的状態を表出する動詞」の一部に類似する。

例えば「困る」は、次のような2種類のテンスで、いずれも現在の「感情表出」に使用可能である。

そんなことをされると、困るね。

そんなことしてくれて、僕は困ったよ。

同様に(例えば)「わかる」は過去テンスで現在の認知的内容を表現できるが、それは上で触れた、「実現された可能」+「認知内容の持続性」故である。上で「叙想的テンス的用法」と呼んだものはこれである。

お叱りの言葉は先生の愛のムチであったと、今になってよくわかるよ。

お叱りの言葉は先生の愛のムチであったと、今になってよくわかったよ。

ただし、どちらのテンスがより選好されるかは、個々の動詞や使用場面によって違いがあるだろう。詳細な比較を含む、そのあたりの問題には、今は立ち入らない。

 

もう一つ、テイル形との相性という問題がある。

可能動詞文は一般的にはテイル形をとらないとされるが、「実現された可能」を表す場合にはテイル形をとり得ることを以前確認した。しかし、ト格の<内容格>をとる可能動詞文は、「実現された可能」を表すにも関わらず、テイル形をとらない。

汚い字だが、よく見ると「遺言状」読める/*読めている。

山頂付近は相当に寒い見える/*見えている。

(cf. 山岡、p19)

「見える」の例では、「(対象)見える」「(補文+のが)見える」「(対象が)形容詞ク形+見える」はテイル形でも使用可能であるが、「(対象が)...と見える」「(補文+)見える」では不適切となる。だが、<経験者格>が主題となる場合には、「と見える」のテイル形の許容度は増すように思われる。

その言動の端々から、彼の本当の人間性が見える/見えている。

この席からも、彼女が悲しんでいるのが見える/見えている。

山が青く見える/見えている。

彼は気分を害したと見える/*見えている。

彼女には、彼は気分を害したと見えているのだ。

これらのことは、以前取り上げた、「...に...を見る」の場合を思い出させる。これらについては改めて触れたい。

 

2.

「見える」「聞こえる」等と同様の構文をとる自発的な心理的動詞には、山岡の挙げた可能動詞の他に、「思われる」「考えられる」「感じられる」等がある。いずれも志向的内容(認知的内容)をル形で表出する機能を持つ。これらの動詞には「思う」「考える」「感じる」といった「基本形」での使用も存在するが、この場合にもル形で表出する機能を持っている。また、それぞれ、タ形で過去における認知的行為を表す使用も存在する。「基本形」では多くの場合、テイル形でも使用されるが、その場合<経験者格>が主題化されているように思われる。

(私には)彼は偉大な英雄思われる/思われた。

(私は)彼を偉大な英雄である思う/思った。

(私は)彼を偉大な英雄だ思っている/思っていた。

梅雨空がうっとうしく感じられる。(形容詞ク形)

これらの動詞全般において、ル形で認知的内容を表出する機能は、<内容格>をとる場合、すなわちト格orニ格をとる場合に限られないことに注意したい。(「見える」も同様である。)

亡くなられて初めて、父に愛されていたのを感じる。

父が亡くなった今になって初めて、父に愛されていたことが感じられる。

向こうの建物の窓から出火しているのが見える。

 

次に、「...と見る」という言い方がある。これは、「...と思う」「...と考える」といった表出の動詞と類似している。つまり、(日常生活での使用頻度は低そうだが)ル形で現在の認知的内容を表出する用法がある。この意味の使用においては、テイル形は不適切となる。

この局面では、名人が優勢と見る。

この局面では、名人が優勢と見られる/見える。

*この局面では、名人が優勢と見ている。

テイル形が適切に使用されるのは、<経験者格>が主題となる時である。

僕は、この局面では、名人が優勢と見ているよ。

誰もが、この局面では、名人が優勢と見ている

 

他にも、山岡の規定する、<内容格>を持つ可能動詞文・自発態文に関連する、いくつかの構文がある。やはり、ル形での表出を中心に見ておく。

彼の実力は、その時代において抜きんでていたように思われる/見える。

この文のヨウニは、トで置き換え可能である。

次のトシテもそうであるが、トシテの場合、ル形では使いにくいと感じる。<経験者格>が主題となってテイル形で使われる場合が多いであろう。

私は、その公共事業を、まれな成功例の一つとして見ている

?私は、その公共事業を、まれな成功例の一つとして見る。

 

他に、次のような「…に…を」の形式にも注意しよう。

私は、彼の姿勢退廃的なもの見る。

私は、彼の筆致静かな怒り感じる。

私は、彼女の声深い悲しみ聞く。

 

ル形で知覚や思考の表出に用いられることは、以上の(ほとんどの)動詞文に特徴的であるが、形式的には、補文節+ノガ/ノヲ/コトガ/コトヲ、名詞/補文節+ヨウニ、名詞+トシテ、...ニ...ヲ、等多様である。(これらの中には、日常会話では使われにくい表現も含まれている。)

補文標識句をとるタイプ以外では、ある内容が認知される「対象」or「場」が、ガ格、ヲ格、ニ格と、様々な形式格で登場することにも注意しよう。

私には、空が紫に見える。(対象:空、内容:紫)

私は、彼を祖国の英雄と思う。(対象:彼、内容:祖国の英雄)

私は、彼の表情に、静かな怒りを見る。(対象、場:彼の表情、内容:静かな怒り)

 

このように<内容格>をとる文、並びに類似の文は、山岡の挙げる可能動詞文・自発態文には限られない。それらの文は、機能的に以前の分類での)〈Ⅵ知覚・思考・内的状態の表出 〉と〈Ⅶ可能態・自発態〉 の領域にまたがっている。〈Ⅵ知覚・思考・内的状態の表出〉 は、〈Ⅴ 態度表明〉とも共通点がある。そしてさらに、〈Ⅱ属性叙述〉 と関係が深いと思われる。しかし、テイル形の許容される条件など、それらの間の違いは一見複雑である。今後の考察の過程で、そのような関連の実相を少しでも明らかにしたい。

 

3.

再び「見る」「見える」について。

「…を…と見る」「…が…に見える」という構文には、類似の構文として、「…が…と見る」「…に…を見る」「...が...のように見える」「...を...として見る」等がある。それらの使い分けを見てゆくことは今後の課題である。

「見る」には、<内容格>の有無or様態と関わる、テンス的特徴がある。例えば、上で見た「…と見る」文では、ル形で現在の事象を表すことができる。それに対し、「(ある対象)見る」「(補文)の見る」という構文は、ル形では通常、未来の事象を表す。

僕は、ブルペンでの様子から、○○投手の調子は上々見る。

僕は、明日の第一試合見る。(未来)

僕は、このまま座って、日が没するの見るよ。(未来)

以前、「... に...を見る」という構文についても、似た現象を指摘した(cf. 2022-02-11)。あたかも格のとり方によって2つの「見る」が区別され、それがテンス・アスペクトの違いに連動するかのようである。当ブログは、このような現象に、ウィトゲンシュタインの考察(PPF111)との結びつきを見ようとした。

そして、「と見る」文や「...に...を見る」等のル形文が属性叙述として機能するとすれば、それはどのような状況(言語ゲーム)においてか。それが今後問いたいことである。

 

(※「と見る」は、視覚的現象の表出から離れて、モーダリティ付加辞のように使用されることが多いのではないか、と指摘されるかもしれない。「と聞く」にも同様の使用がある(cf. 山岡、p14-5, 25-8)。例えば、上の3つの文、下の2つの文が、それぞれ同じ様に使われる状況は容易に想像できる。

名人の、この指し手は相手への催促と見る。

名人の、この指し手は相手への催促と考える。

名人の、この指し手は相手への催促だろう

名人は、ピンチでも落ち着いていたと聞く。

名人は、ピンチでも落ち着いていたらしい

そのように、具体的な知覚現象の表出とは呼びにくい例が多くあることは否定できない。その実態は個々の 文と現実の使用状況に即して判断される他ない。ただ、上の例文の場合「相手への催促と聞く」とは言えないわけだし、視覚と無関係と(まで)は言えないと考える。「と聞く」の例文も然りである。

しかし、モーダルな使用と、知覚に関する使用との乖離の度合いについては、今後も注意が必要である。

なお、ウィトゲンシュタインが、「見る」と「として見る」との距離、「として見る」と「考える」との距離、すなわちそれらの差異と類似の様相を問題にしていたことも思い出しておきたい。cf. PPF111,137,139,140,144,181,182,185,187)

 

一方、英語で "see" を用いた文の補部の内容は(いわば)非属性叙述的であると、一般的には認められてる。

つまり、英語においては、一般に知覚動詞文、その中の 小節 small clause 型の補部(SVOC型構文のOC)に、状態的述語を用いることは適切でないとされる(cf. 白井賢一郎、「英語の知覚動詞構文」p17)。とりわけ、一時的な事象/状態の表現でない、individual-level predicateは許容性が低い(cf. Gennaro Chierchia, "Individual-level predicate as inherent generics" p178 )と。

*We saw John resemble  his father.

*We saw the lamp stand in the corner.

 We saw the lamp standing in the corner.

*We saw John be drunk.

*I saw John tall.

*I heard John like Mary.

 I saw John drunk.

(上4つは白井、p17-8より。その他は、Chierchia, p178より。)

(2番目の例文と3番目、4番目と7番目との対比にも注意したい。)

では、"see...as..."構文ではどうなのか?

残念ながら、当ブログには具体的な英語やドイツ語の使用状況を判断できるだけの知識・経験がない。だが、現実の言語使用に即してこのような問題を問うことが、アスペクト知覚論を捉えるための条件である、と当ブログは考えてきた。

そこで、日本語の使用状況を基に問いを展開しようというのが、当ブログの意図であった(cf. 2022-02-11)。

 

次回より、以上で見てきた問題に入ってゆく。しばらくは、ル形等のテンス的な性格よりも、格の形式や補文等の構造的な特徴が話題の中心となる。ただし、底を流れているのは、〈属性叙述〉というテーマである。