認知的動詞文の問題(1)

1.

アスペクト知覚に関わる日本語文について、知覚の動詞「見る」「見える」を使用した文を中心に、その構造を見て行きたいのだが、前回挙げたような、それ以外の認知的/心理的動詞文の構造にも(できる範囲で)目配りしておかなければならない。というのは、それらとの類似と差異という関連の中で見ることが、その理解に必須と考えられるからである。ただ、それら全般を正面から取り扱うのは荷が重すぎるので、実際には「見る」「見える」の構文が中心になる。ここでは、そのためのごく一般的な視点について述べておく。すなわち、前回見た多様な文を、どのような視点から構造的に捉えるか、を問題にしたい。

例えば、(<内容格>を持つものも持たないものも含めて)大きくは、補文節をとるもの と とらないもの とに分類することができよう。例えば、a,b は補文節をとるが、c,d はとらない、と言えそうだ。

a. 彼は気分を害したと見える

b. この席からも、彼女が悲しんでいるのが見える

c. 空に虹が見える。

d. 私は、彼の姿勢に退廃的なものを見る。

しかし、何が「補文節」であるのかは、自明なことだろうか?答えるためには、まず単文/複文の定義に戻る必要がある。

日本語学の標準的な見解を知るために、益岡・田窪『基礎日本語文法 第3版』を見てみると、

単一の述語を中心として構成された文を単文という。......

これに対して、複数の述語からなる文を複文という。.......

複文を構成するところの、述語を中心とした各まとまりを、節と呼ぶ。...

複文は複数の節で構成されるわけであるが、それらの中で、原則として、文末の述語を中心とした節が文全体をまとめる働きをする。この節を「主節」と呼ぶ。主節以外の節は、主節に対して特定の関係で結びつく。これらの節を一括して「従属節」と呼ぶ。

(p4)

これに拠れば、「補文節」は、「主節」とは異なる述語が存在することがポイントになる。

まず、ノ、コト、ト等の補文標識が存在して、「述語を中心とした各まとまり」の中に、「主述関係」が見て取れる文では、補文節の存在は分かりやすい。

[山頂付近は相当に寒い]見える

この席からも、[彼女が悲しんでいる]が見える。

しかし、次のような、サブの述語が連用形(「美しく」「光って」)で、補文標識が存在しない文も、補文節ありとすべきだろうか。

e. 山々の新緑が美しく見える。

f. 山が光って見える。

「見る」「見える」以外の動詞にも目を向けよう。例えば「思う」。次の2つの文の意味は、ほぼ同一であろう。

g. 私は、その中の一人が犯人だと思う。

h. 私は、その中の一人が犯人と思う。

gは「犯人だ」が述語だから複文であるが、hは名詞「犯人」を含むにとどまるから単文なのだろうか?それとも、hも述語を(ゼロ記号として?)含むのだろうか?

i. 私は、その中の一人を犯人だと思っている。

j. 私は、その中の一人を犯人と思っている。

「その中の一人」は「犯人である」という性状を担うものであるが、「その中の一人を犯人だ」は一つの節だろうか? そう見るのは具合が悪いだろう。というのは、「その中の一人を」は、主要述語「思う」に対応してヲ格に決定されていると考えられるからである。だが、意味的には、「犯人だ」と主述関係で纏まるように見える。もしiが複文であるとすれば、補文節は「犯人だ」のみからなるのだろうか?また、jの場合はどう考えるべきか?

これら素朴に見た疑問点、すなわち、単文/複文の区別や節の構造がはっきりせず、意味的にほぼ一緒の文が異なったカテゴリー(単文/複文)に分類されたりすることに関し、専門的な特定の立場に立てば適切に説明できるのかもしれないが、当ブログはそのような立場に立っておらず、様々な立場の間で吟味する余裕もないのである。

英語動詞は陳述形(finite)と非陳述形(non-finite)とにセツ然と二分される。陳述形こそセンテンスやクロオズを担う責任者であって、単文、重文、複文の区別は、陳述形の個数や相互関係によるものである。わが活用形はどれどれが陳述形なのかはっきりしない。陳述形が確立していないのに、単文、重文、複文の分類を輸入しても、それらを形式から裏づけることができない。(三上章、現代語法新説、p268)

 

2.

さて、上の e~j のような文は、生成文法では、深層構造において埋め込み文の構造を持つものとして扱われる(cf. 三原健一、『日本語構文大全』Ⅱ、p72)。それは、表層での補文節の有無や格構造からは独立しているだろう。その他の前回見てきた文にも、埋め込み文の構造を持つと見られるものは多数あるだろう(cf. 柴谷方良『日本語の分析』)。

そこで、生成文法的に見て、埋め込み文の構造を有するもの、有しないもの、という分類が考えられる。

ただし、これも当ブログにとっては、都合の良いものではない。というのも、そもそも生成文法における「文」が何であるのか、不勉強で理解できていない(例えば、S/IP/TPの概念的使い分けがどのような視点からなされているのか、よく知らない)し、一般にどのような構文が埋め込み文構造を持っているとされているか、個々の構文に関してどのような論争があるかもよく知らないからである。

しかし、埋め込み文の観点は、今後の探究にとって、大きな重要性を持っている。ゆえに、曖昧な把握にとどまろうとも、その観点は保持しなければならない。

 

3. 

もう一つ、注意したい観点について。

先に、英語の知覚動詞構文における、状態動詞やindividual-level predicate(ILP)の制限を見てきた。そのような制限には、構文的に、小節small claus型(いわゆるSVOC文型)と引用節型とで差が生じる場合があった。

*I saw John tall.(小節型)

I saw that John was tall.(引用節型)

このように許容度に差があるが、この2つの文で何が異なっているのか? 一つの見方としては、従属節の動詞の不定non-finite/定finiteの違いが挙げられるだろう。小節型の動詞は原形不定詞bare Infinitive でnon-finite formであり、引用節型はfinite formである。

そこで、補文節等に登場する動詞が定形であるか、不定形であるか、という観点が考えられる。

(※"see"による知覚文の、小節型における様々な補部動詞の間の許容度の違いは、定形/不定形の違いでは説明できない。また、引用節型で定形であれば、いかなる述語でも可となるわけではない。要するに、従属節の動詞が定形であることは、許容性のすべてを決定する条件ではないことに注意。)

知覚動詞文の性格を考えてみれば、この差異が重要となる可能性に気づかされる。

すなわち(「幻覚」の問題を一旦措くならば)、知覚されたものは、特定の時空的な位置を有する出来事event であるはずだ、と考えられる(cf. Higginbothamの知覚動詞文分析)。そして、出来事の記述は、定形の表現と相性が良いはずである。なぜなら、定形化とともに、特定の主体、テンス、アスペクトが与えられ、動詞の表現する内容が、特定の時空間に結びつけられるからである。

もちろん、小節型全般が許容されないわけではないから、全体を説明する要因としては不十分であるが、この観点に着目させる理由にはなっているだろう。

注意しておきたいのは、認知的機能に関わる動詞でも、"think"などは、特定の時空に存在する出来事を必ずしも対象とするわけではないこと、ゆえにモーダリティの問題(助動詞やsubjunctiveなどの使用)がより前面に出ること、である。

 

もともとヨーロッパ語学の中で生まれてきた定形/不定形の観念を、日本語に関してどう取り扱うのが適切か、専門的なことはよくわからない(上の三上の文を参照)。しかし、日本語文でも、仮に小節の述語を不定形、引用節の述語を定形とみなすなら、「見える」/「見る」文の間で次のような対比が見られる。

(小節型)

山の新緑が美しく見える。

*山の新緑を美しく見る

山が光って見える

*山が光って見る。

 

(引用節型)

山頂付近は相当に寒いと見える

山頂付近は相当に寒いと見る

すなわち、「~が~見える」構文とは異なり、「〜を〜(と)見る」構文の小節型は許容されない。これは小節の述語が状態的である/なしに関わらない。

(※「自らの症状を軽く見る(イ形容詞?副詞?)」「事態を深刻に見る(ナ形容詞?副詞?)」のように例外と見えるものもあるが、今は立ち入らない。)

対するに、引用節型では「~と見る」「~と見える」の双方とも可能である。

 

4.

基本的な概念について曖昧な理解に留まるのは仕方ないとして、以上の観点を保持しながら、次のように試みたい。

まず、「見る」と「見える」について、ル形で表出的な機能をもつ主要な構文を拾い上げる。それぞれの間で対応付けられるもの同士を関連づけておく。そしてそれらの構文に関連する、他の認知的/心理的動詞構文を見出して比較する。

 

さて、ここでもう一つ注意しておきたい、

当ブログがくり返し確認したように、ウィトゲンシュタインは、「...を...として見る "...als...sehen" 」や「...に類似を見る」のみをアスペクト視覚の表現形式とみなしたわけではなく、アスペクトの閃きの表現として様々な形式の発話を取り上げており、それらについて考察している( 2018-08-07, 2020-12-10, 2021-06-08 )。ここでは立ち入らないが、日本語においても、以前、Ⅱ属性叙述のル形として考察した文のなかに、アスペクトの閃きの表現と見なしたいものがある。日本語でも、「...を...として見る」や、今後取り上げる予定の「...と見る」「...に...を見る」といった構文の使用は、日常生活ではむしろ希少である。それでもあえてこれらの構文を取り上げるのは、形式的な特徴が明確であり、他の動詞文との比較も捗りやすいと思われるからである。