「関連づけ」と半過去

1.

前回、叙想的アスペクトの一例として、フランス語における「説明の半過去」を取り上げた。

さらに、日本語「のだ」の用法の定義を参照して、「説明する」と「関連づける」の意味上の類似に注意した。

 

通常、半過去の本質は、その「imperfectiveというアスペクト」と 「過去というテンス」にある、とみなされている。

しかし、半過去の多様な用法を視野に入れて、本質を別のところに見出そうとする学説は少なくない。

その中で見逃せないのが、「関連」の存在を 半過去の使用の条件と考える説の存在である。

 つまり、半過去が「関連づけ」に使用される(説明の半過去)ばかりではなく、逆に、半過去が使用されるのは「関連」が存在していることが条件となる、と言うのである。とすると、半過去と「関連づけ」の間には本質的なつながりがある、ということになる。

とはいえ、そのような説は「関連づけ」のみを議論の焦点としているわけではない。

まず一歩引いて、全体の姿を視野に収める必要がある。

 

2.

大久保によれば、半過去(IMP)の研究は、その未完了性に焦点をあてたものと、その非自立性に焦点をあてたものの2つに分類可能である。ここではそれぞれ、未完了説、非自立説、と呼ぶ。(大久保伸子、フランス語の半過去の未完了性と非自立性について, p23。 半過去の非自立性についてはここで説明した)。

 

前者(未完了説)は、imperfective というアスペクト的特質に半過去の本質を見ようとするものである。

それに対し、後者は一般的には、半過去で表される事象が、ある基準時(time of reference)に照応・定位されることを半過去の本質と考える(基準点・照応説と呼ばれるが、その内部には様々な立場の違いもある)。

ただし、大久保は、独自の観点から、基準点・照応説をも前者に含めている。後述するように、「時点」への関りを根として、未完了性と(基準点との)同時性は結び付くと考えるからである(前掲論文、p28)。

 

大久保が後者(非自立説)に分類したものは、非過去説、時間的テーマ説等であるが、その中に、半過去の「関連づけ」機能を重視する説が存在する(Berthonnau & Kleiberの部分照応説)。

原論文を参照することはできないが、大久保の論文の中の紹介をみよう。

 

3.

 大久保は、Berthonnau & Kleiberの部分照応説について、まず、次の引用を示し、直接法半過去(IMP)の使用における「先行詞」の必要性を指摘した最初の例である、と言う。

(14)L'imparfait ne localise pas lui-même la situation qu'il introduit: (i) il ne peut être utilisé s'il ne renvoie pas à une entité temporelle du passé,déjà disponible dans le contexte antérieur ou accessible dans la situation immédiate,(ii) en l'absence d'un tel élément,l'imparfait est jugé ininterprétable.(B&K 1993:57)

以後、B&KはIMPを前方照応の時制(temps anaphorique)とする照応説を展開していくことになる。

(大久保、前掲論文、, p27-28)

 「(14)半過去は、自身が導入する状況の中に自らの内容を位置づけるものではない:

というのも、(i)先行する文脈に在って自由に利用できたり、直下の状況においてアクセス可能であったりするような 過去の存在 への参照がなければ、半過去は使用できない、そして(ii)そのような存在がない場合、半過去は解釈不能とみなされる、からである。」

これだけでは何を言っているのか分からない、と言われそうだが、要は、「過去の存在une entité temporelle du passé」と言われているものが「先行詞」の内容にあたる。上の文章は「半過去の非自立性」の指摘に他ならない。

では、「先行詞」とは何か。大久保が注目するのは、その内容の展開である。

 B&Kの照応説は当初、ただ基準点を先行詞と言い替えただけで、従来の基準点説とさほど変わりはないものであったが、B&K(1998)の部分照応説において、従来の照応説との違いを明確にすることによって全く新しい展開を見せ、基準点説を言語的要素に言い換えただけの照応説とは一線を画すことになる。

(大久保、前掲論文、p28)

 すなわち、

従来の照応説との一番の違いは次の2点である(B&K 1998:35)。

 (15)a. IMPの先行詞は時点(moment)ではなく、状況(situation)である。

        b. IMPが示す事行は先行文脈が示す状況の一部に照応し、概念的繋 がりを持つ。

相違点 (15a)によって、部分照応説はアスペクト説から従来の照応説まで連綿と続いてきた同時性・未完了性によるIMPの規定と袂を分かつことになる。なぜならIMPの同時性・未完了性はその事行が「過去のある時点」よりも前から始まり、その後も続くということであり、それは「時点」の概念抜きには成立しないからである。

相違点 (15b)によって、部分照応説はアスペクト説はもとより、従来の基準点説では説明できなかった(16)のIMPの振る舞いを説明できるようになる。

(大久保、前掲論文、p28)

 大久保が「先行詞」を時点でなく状況であるとする(15a)を高く評価するのは、彼女自身が、「半過去は「別のどこかで別の誰かが観察していること」を表している」という自説において、別のどこか=「認識空間」と 「時点」(大久保の言葉では「認識時間」)とを切り離そうとしているからである。半過去と「観察体験の報告」との類比を問うてきた当ブログも、その論点には関心を持つが、今、その説明には立ち入らない

問題の 例文(16)とは、次のようなものである。

(16)a. Jean se mit en route dans sa vieille Fiat. Il attrapa une contravention. Il roulait {trop vite/⁕avec plaisir}.(B&K:1998)

b. Jean se mit en route dans sa vieille Fiat. Il attrapa une contravention. Il roulait pourtant avec plaisir.(ibid.)

(大久保、前掲論文、p28)

「 (16a)ジャンは古いフィアットに乗り出発した。彼は交通違反の罰則を受けた。{スピードを出しすぎていたのだ/⁕気持よく運転していたのだ}。

 (16b)ジャンは古いフィアットに乗り出発した。彼は交通違反の罰則を受けた。気持ちよく運転していたのだけれども。」

フランス語に慣れない筆者にも、これらの許容性の違いのニュアンスは理解できるような感じがする。

 IMPを使うには先行文脈の表す状況( Il attrapa une contravention)と事行(Il roulait avec plaisir)との間に全体と部分の関係があると同時に概念上のつながりが必要である。スピード違反と罰金との間に関連はあるが、気持ちよく運転していたこととの間に関連はないので、状況補語がtrop viteの場合には容認可能であるのに対し、avec plaisirの場合には容認不可能になるのである。しかしpourtantを入れると(16a)では使えなかったIl roulait avec plaisirが(16b)のように使えるようになる。罰金を課せられた時のJeanの状況(腹立たしさ)に逆向きに意味的関連づけができるからである(B&K 1998:45-59) 

 ここで、「関連づけ」にも、いわば順接、逆接があること、一様ではないことを確認しておこう。

また、この例で「気持ちよく運転していた」ことは、スピードを出し過ぎたことの原因の一つであり、つまりは交通違反原因の一つであるかもしれない。しかし、視点や文脈によって、一つの原因である事象が、必ずしも「関連」の中に入ってこない場合がある。それをも(16a,b)は示していると言えるだろう。

すなわち、「関連づけ」「説明」の代表的なタイプとして、理由や原因を持ち出すこと、がある。しかし、「関連づけ」「説明」はそれらに限定されない、より広い領域を持っていることに注意しておかねばならない。

 

4.

さて、(15b)によって、従来の説では説明できなかった(16)のIMPの振る舞いを説明できるようになったことは大きなメリットであろう。しかし、(15b)という条件は、すべての半過去の用法に求めるべきものなのだろうか?

そんなはずはない、と言いたくなる。例えば、

 A midi,quand je suis rentré, tu dormais encore.

正午に僕が戻ってきたら、君はまだ眠っていた。

 「僕が戻った」ことと「君が眠っていた」こととは同時に生じていたとしても、通常、「概念的つながり」はないだろう。

残念ながら、現論文で著者たちが、このような批判にどう答えたかを確認することはできない。

※(15b)は、もう一つ重要な条件、すなわち、部分ー全体関係という条件を含んでいた。これについても様々な疑問が寄せられるであろうが、ここでは立ち入らない。しかし、部分ー全体関係 という視点は非常に重要なものであり、しかるべき時にまた触れたいと思う。

さて、「正午に A midi,~」の例文における半過去は、行為の背景の描出に使われている、と言うことができよう。

そして「背景の描出」は、「背景の説明」と言い換えられるだろう。

ここでも、「説明」という言葉は幅広く便利に使われる。「説明」は、大変広く、漠然とした意味を持っている。