「説明」の周辺(23):“It clicks, it fits.”

1.

前回からの流れで、「閃き」に類比される美学的体験(反応)について。

一つの作品の持つ、新たな次元に目を開かれるような体験。それが一瞬の内に起こった時、それはアスペクトの閃きに類比できるであろう。

あるいは、作品の新たな解釈を見出して、それが今まで抱いていたものよりも作品にぴったりと合っている、と感じられることがある。

(そのような解釈は、ウィトゲンシュタインの言う「美学的説明」の例である。)

これらの体験の中では、作品が新たな姿を纏っているかのように、その新たな姿が作品に「ぴったりと合っている」かのように感じられる。

ウィトゲンシュタインは、“click”という比喩について語っている。

人は、「これは何かを思いださせるが、何だろう?」と自問したり、ある楽曲について「これはまるで何かの文章のようだが、どんな文章に似ているのだろう?」と言ったりする。様々なことがらが浮かんでくる中で、その一つが、(よく使われる言い方だが)カチッとくる clicks 。この、それが「カチッとくる」とはどういう意味か?それは、カチッという音に喩えられるようなことをするのか?ベルの鳴る音やそれに比較できるようなことが起こるのか?( LCA, p19)

"click"に並んでよくつかわれるのが、先に連発した「ぴったりと合う passen, fit 」のような言い回しである。

 ウィトゲンシュタインは、『探究Ⅰ』§537で、臆病さ、あるいは大胆さと 顔との“passen”について語っている(元になった断章は、『文法』Ⅰ128-9)。まさしく、それは、今話題にしている現象に近縁性を持っている。

だが、『探究Ⅰ』のさらに前の部分、§136 で「命題」概念と「真理」概念との“passen”が、さらに§138で、言葉と意味との“passen”が、話題にされていたことにも注意しよう。それらも、作品と解釈、顔と性格の例に類比させてとらえることが可能である、と思う。(ここで、その根拠を述べることはしないが。)

それなら、私が理解する言葉の意味も、私が理解する文の意味にぴったり合うpassenことができるのではないか?あるいは、ある語の意味が他の語の意味にぴったり合うことができるのではないか?―言うまでもないことだが、もし語の意味が我々がその語を用いて行う使用であるのなら、それについてそのように「ぴったり合う」と言うことに意味はない。だが他方、我々は言葉を聞いたり発したりするとき、その意味を理解する。我々はそれを一瞬でmit einem Schlage把握する。そして、我々がそのように把握するものは、時間的な広がりを持つ「使用」とは確かに別のものなのだ!(PI 136、鬼界彰夫訳)

ここで、「カチッとくる」に類比的な、意味の一挙的把握 erfassen mit einem Schlageに焦点が当てられる。(表情の一瞥的認知との類似)

そして、そのように把握される「意味」の時間様態と、言葉の「使用」との時間様態の差異が、問題となるのである。

 

2.

以前強調したようにウィトゲンシュタインは、「心理的な」体験と、その表現を「同列において」捉える。

「意味の一挙的把握」には、「ああ、わかった!」のような表出行為が対応していることに注意しよう。

ところで、「知る」、「わかる」という言葉には次のような使用法もある。我々は、「わかった!Jetzt weiß ich’s!」と言う―そして、「できるぞ!Jetzt kann ich’s!」とか「理解した!Jetzt versteh ich’s!」とも言う。(PI 151、鬼界訳)

ウィトゲンシュタインは、「わかった!」のような表出を「シグナル Signal」と呼ぶ。(cf. PI 180)

 

3.

さて、ウィトゲンシュタインは、“click” や “passen (fit)” といった言い回しについて、こう述べる。

われわれは、くり返しくり返し、こういった、カチッとくる、ぴったり合う何物か、という比喩を用いている。しかも、実際には、カチッときたり、ぴったり合ったりするものなど存在しないところでも。(LCA, p19)

注意したいのは、彼が、「カチッとくる」「ぴったり合う」ものなど一切存在しない、と言っているわけではないことである。

そして、主体の体験として、まさに「カチッとくる」「ぴったり合う」と形容したくなる体験(例えば、アスペクトの閃き や Aha体験。それらを「一瞥的体験」と呼ぶことが出来るだろう。)が存在することは誰も否定しないだろう。

ウィトゲンシュタインが批判的に言及するのは、そのような体験が(例えば)「理解」概念全般の範型として据えられること、である。

えてして記号は文法全体を集約しているかのようにみなされやすい。そして文法の全体が、あたかも真珠の紐つなぎが小箱のなかに収められているように、記号のなかに含まれており、われわれはそれをただ引き出してきさえすればよいかのようにみえる。(しかしこのような構図Bildこそまさにわれわれを誤らせるものなのである。)そこで、理解とはあるものを瞬間的に把捉することein momentanes Erfassenであり、そこから後になっていろいろの帰結がひきだされる、というふうに考えられてしまう。しかもそれらの諸帰結は、それらがひきだされる前に、イデー的な意味ですでに存在しているというわけである。(PGⅠ18 、山本信訳)

また、同様に、さまざまな場面で、「一瞥性」のモデルが偏った見方を助長することに対して、である。

「理解」の場合について、もう少し見ておこう。