「説明」の周辺(16):「驚き」の行方(後)

1.

 <驚き><注意を引かれる>は、前回の例とは異なった方向に向かうことがある。

 

『茶色本』から。 ウィトゲンシュタインは、手描きの顔の絵を示して言う。

 この顔が君にある印象を与える。そこで君は、「確かに、私が見ているのは単なる線ではない。私は、ある特定のparticular表情をした顔を見ている。」と言いたくなるかもしれない。とはいえ、君は、それは特記すべきoutstanding表情をしている、と言っているわけではない。また、その表情の記述の前置きとして、そう言ったわけでもない。・・・「言葉では、それは正確には言い表せない。」とよく言われる。それでもなお、顔の表情と呼ばれるものは、顔の線描きから分離できる何かであるように感じられる。あたかも、「この顔はある特定の表情をしている:すなわち、これだ」(あるものを指して)と言い得るかのように。(BBB, p162)

  前々回に見た、「表情の記述」に関連した問題である。

ウィトゲンシュタインは、

この文、「私は、ある特定のparticular表情をした顔を見ている。」が、

「<特定の>という語が、比較の存在を示しているようにみえながらも、そうではない」(BBB,p162)仕方で使われる場合 

を例にとって話を進めている。

(前々回に説明したように、「表情の記述」の一つのあり方は「比較(比喩)」であった。また「美学的説明」を特徴づけるものも、「比較」であった。)

この場合にその文が言おうとしていることを別の言葉で言い換えるなら、例えば、

「私はまさにこの表情をみているのであり、この表情は唯一無二のものだ。」

のようになるだろう。

※例の文が、そうでない使い方をされる場合も存在することは、上掲の「とはいえ、君は・・・」以下の部分で説明されている。

すなわち「ある特定の表情」の内容がさらに別の言葉で説明されたり、文脈的に比較の対象となる別の表情の存在が明らかな場合等、である。

例の文は、ある体験が、それ自身として唯一無二であり、比較を絶していることを言い表そうとしている。その意味で、独我論的な言明、たとえば「私だけが本当の痛みを感じる」「私だけが本当に見る」(BBB, p60)に類比することができるだろう。

※そのような類比がどの程度妥当であるかどうかは改めて問わなければならない。例の文を前回見たような「アスペクトの閃きに注意を引かれる」表現と比較するのが適切かどうかについても同様である。

 

そして、そのような「独我論的」言明もまた驚きの表現である、と言えるだろう。

それは『論考』に記されているような体験に触れた時の驚きであるかもしれない。

神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。(TLP 6.44、野矢茂樹訳)

限界づけられた全体として世界を感じることGefühl、ここに神秘がある。(TLP6.45、野矢訳)

 

 2.

独我論的な主張を、後期のウィトゲンシュタインが治療の対象と見なし、批判的な態度で扱ったことは事実である。

先の文は、いわば「病的な 表情の記述」、「病的な 美学的説明」の例として、『茶色本』で扱われている。そのような「記述」を用いようとする傾向は、次の文の言う「錯覚」に結びついている。

‘particular’ という語の使用は、ある種の錯覚を生みやすい。大雑把に言って、そのような錯覚は、この語の二重の用法から生まれる。一方で、この語は、詳述したり記述したり、比較したりする際の前置きとして使われる。他方では、強調とでもいうべきものとして使用される。最初の用法を他動詞的用法、後の方を、自動詞的用法と呼んでおく。(BBB, P158)

ここで、出版された他の遺稿には見られない「他動詞的用法」「自動詞的用法」と言う概念の登場が目を引くが、それだけでなく、ここで「強調」「注意集中concentrate」(BBB,p159)の機能が取り上げられることに注意しよう。

例の文は、強調の機能を果たしているが、話者自身は、それを 表情の記述の一種と見なしており、通常の記述との重大な差異に気づいていない(それがここで言う「錯覚」であろう)。

 

では、このように強調する行為 と 通常の「表情の記述」とはどう異なるのか。

 

3.

「私は、ある特定の表情をした顔を見ている。」

どのような状況で、ウィトゲンシュタインが問題にする使用がなされるのか。

 

a. この文が、その顔を見ていない他者に向かって言われる場合― 

通常、「その表情の記述の前置きとして」(BBB, p162)使われる。

<「見る」という語の2つの使用>(PPF111)の最初の例のように。

「見る」という語の2つの使用。
その一つ:「君はそこに何を見るか?」-「私はこれを見る」(そして、記述、描画、模写があとに続く)。(PPF111)

つまり、それはウィトゲンシュタインが問題とする使用例ではない。

 

b. また、その顔を同時に見ている他人に向かって言われる場合―

通常は、その表情を範例(サンプル)として指定するような働きをする。

つまり、後でその表情の想起を求めたり、他の表情と比較したりするために言われる。ウィトゲンシュタインは、明らかに、そのような使用を念頭に語っているのではない。

 

彼が問題にする使用は、次の場合に似ている。

さて、自分に赤くみえるものを記述する際に <赤い>という語は特定の仕方で浮かんでくる、と、私が哲学的に考察しながらphilosophizing言えばどうであろうか。(BBB,p158)

「私は、ある特定の表情をした顔を見ている。」は、そのような哲学的に考察する際の発言に類比することができよう。

「赤い」が浮かんでくる仕方に特定のものがあるというのは、「赤い」が浮かんでくるのが哲学的に考察している間だからである。自分の姿勢に注意集中concentratedしている際にその姿勢が特定のものとして感じられるのは、その集中ゆえであるように。われわれは、あたかもその有様について記述しようとするかのようだが、実際にはその有様を他の在り方に対比してはいないのだ。われわれは強調しているが、比較してはいない。にもかかわらず、あたかも、この場合の強調が対象をそれ自身と比較することであるかのように表現する;あたかも反射的比較というものが存在するかのように。(BBB,p159-160)

君が読むことを行い、それに注意を集中しつつ、次のように言う:「疑いもなく、何か特異なpeculiarことが起きている。」君は次のように続けたくなる「ある滑らかさがここにある」だが、きみはそれを不十分な記述のように感じ、その経験を表現できるのは経験自身しかないと感じる。「疑いもなく、ある特異なことが起きている」は「私はある経験をした」と言うことに似ている。だが、君は、自身のその特定の経験から独立した一般的言明をしようとせず、その経験自身が登場する言明を行おうとする。(BBB, p177)

「われわれは強調しているが、比較してはいない。」

「この顔はある特定の表情を持っている」という文に帰ろう。そこでも、自分の印象を何かと比べたり対照させたりしているのではないし、サンプルとして使おうとしていたわけでもない。この文は、注意の状態を表出するものであったのだ。(BBB, p177)

にもかかわらず、われわれは、単に指示し強調するのでなく「赤い」が浮かんでくる仕方や「この顔の表情」について意味のある言述を行ったつもりでいる。

君がある印象を受ける。そこで君は「私はある特定の印象を持っている」と言う。この文は、少なくとも君にとっては、どんな印象のもとにあるのかを述べているようにみえる。つまり、あたかも君は すでに自分の心の中にある像を指して「私の印象はこのようなものだ」と言っているかのように見える。だが、実際には君はただ自分の印象を指示しているに過ぎない。(BBB, p177) 

私の表現の仕方は、あたかも私が彼の座り方について何かを指摘しているかのように思わせた。あるいは、以前の例では、「赤い」が浮かんでくる仕方について、何ごとかを指摘しているかのように思わせた。しかし、「特定の」という言葉を私が使うのは、それらの現象に対する態度によって、私が現象に強調を置き、現象に集中しており、現象を心の内で辿り直し、思い描く、など していたからである。(BBB, p160)

では、そのように「錯覚」するのはなぜか?

 

4.

それは、引用の中で言われているように、「対象のそれ自身との比較」「反射的比較」(BBB, p160)というものが、述定のあり方として可能であるかのように受け取られているるからだ。対象は、(サンプルを使って)述定される対象でありながら、述定に使われるサンプルでもあることができるかのように。

均一な色をした壁を見つめて私が言う、「私は、ただ一面に同じ色であることを見ているだけではない。ある特定の色を見ている。」。ただし、こう言う際に文の機能を誤って捉えている。―あたかも君は自分の見ている色を特定しようとするかのようだが、その色について何かを述べるのでなく、その色をサンプルと比較するのでもなく、ただ指示することによって為そうとする;すなわち、その色を同時にサンプルとして、またサンプルと比較される色として、使用するかのようにして。

(・・・)先に「私は文の機能を誤って捉えている」と述べたのは、その文によって自分自身に、見えているのがどんな色であるかを指示しているようにみえたが、実際はある色のサンプルをじっと見ていただけであるからだ。私には、そのサンプルが自らの色の描出であるように見えたのだ。

(BBB, p174,p175)

「私はある特定の色を見ている」という文で、われわれは次のように言っているつもりになる「その対象の色は、あるサンプルの色をしている。」

だが、そのサンプルは、かの指示された対象自身なのだ。 

そのようにして、先の文が、比較の形式を持った「表情の記述」でもあるかのように捉えられることになる。 

 

 5.

つまり、ウィトゲンシュタインによれば、例の文「私は、ある特定の表情をした顔を見ている」は、「この表情はこの表情だ」という発言に類比的である。

 

一見、ウィトゲンシュタインは、この種の同一性の言明を、働かない命題、その意味で無意味な命題と見なしたかのようである。

「ものはそれ自身と同一である。」―無用の命題の、これ以上見事な例はない。(PI 216、鬼界彰夫訳)

しかし、実際は、そのような言明を単に無意味なものとして排斥するのではなく、使用に伴う身振り等を視野にいれ、強調する行為として、同一性言明の日常的な使用を捉えようとした。

・・・なぜわれわれは、「これで決まりだThat's settled」を「That's that」で表現するのか?言い換えinterpretationを重ねて、この2つの表現の間の移行を可能にすれば答えることができる。例えば「これで決まりだ」の代わりに、私は「この件は終了The matter is closed」と言う。そして、これが表現するのは、いわば、その件をファイルして棚におさめることである。その件をファイルすることは、その周囲を線で囲むようなことである。例えば、よく計算結果を線で囲んで、結論であることを印しづけたりするように。だが、これは当のものを目立たせることでもある;すなわち、それを強調するやり方である。一方、「That's that」という表現が行なうことも、「that」を強調することなのだ。

(BBB, p161 ここで採られたinterpretationによる手法は、精神分析を意識したものと思われる。また、『探究Ⅰ』で言う「連鎖の環を見出し、あみ出す」(PI122)手法の見本にもなっている。)

cf. PPF311、RPPⅠ992

さらに、そこから、哲学的使用をも眺めようとした。

同一法則「a=a」のことを考えてほしい。そして、いかに努力してその意味を把え、視覚化しようとするか、木を見つめて「この木はこの木と同じである」というようなことを何度も自分に繰返し言いきかせる、このことを考えてほしい。この文に一見意味を与えている身振りやイメージは、「これだけが本当に見えているものだ」、という場合のそれに非常に似ているのだ。(BBB, p65、大森荘蔵訳p118-9)

 6.

以上見てきたウィトゲンシュタインの考察を、さらに検討することは将来の課題とする。

ここまで、「表情expression」の問題の流れの中で、

<驚き>を表現expressする言語ゲームや、注意の表出に関連する言語ゲーム(身振り等を含んだ)に注目した。

そのような言語ゲームにおいて、

「共同注意」「体験の共有」への志向、や、

独我論的表出」への志向、が見て取られるように思われた。