「・・・として見る」と意志

1.
「・・・として見る」と意志との連関を考察することが、次の課題である。

 アスペクトを視ることと表象することは意志に従属している。(PPF256 cf.LPPⅠ452)

 ウィトゲンシュタインは、草稿、タイプ稿において、この主題、すなわちアスペクト視覚、Vorstellung表象(あるいは想像)、意志という3者の連関、を何度も取り上げた。アスペクト視覚と表象(想像)との類比は、この「意志への従属」が要となっている。

 そしてアスペクトが(少なくともある程度まで)随意的であるということは、アスペクトにとって本質的なことのようにみえるが、それは表象が随意的であることが表象にとって本質的にみえるのと同様である。(RPPⅠ899)

だが私はアスペクトは表象であるとはいいたくない。そうではなく、<あるアスペクトを見る>と<あるものを表象する>は類縁性をもつ概念である、と言いたい。(RPPⅡ543)

 アスペクト視と意志との関係も、表象と意志との関係も、いずれも本質的であり、外的ではない。

 われわれはまず表象というものを知り、その後に初めてそれを自分の意志によって操縦することを学ぶわけではない。(RPPⅠ900)

「相貌は意志の支配下にある」これは経験命題ではない。(RPPⅡ545 野家啓一訳)cf.RPPⅡ83

 2.

意志との関係でみることは、アスペクト視と表象すること、二つを共に「行為」に近づける。cf.RPPⅡ116

 すなわち、人が「今度はそれをこのように見よ!」とか「・・・を想像せよ!」とか言えるということは本質的なことなのだ。(RPPⅠ899  佐藤徹郎訳)

何かを想像することは一つの活動になぞらえうる。(泳ぐこと)(RPPⅡ88 野家訳)

アスペクトを見ることは意志行為(Willenshandlung)である。 (LPPⅠ451 古田訳)

cf.LPPⅠ556、585、586

「いまわたしはそれを・・・として見る」は「私はそれを・・・としてみようと努めている」や「私はいまだそれを・・・として見ることができない」とともに機能する。(PPF203)

 (多くの場合)、意図して行えることー行えないこと の対比に、・・・として見ることが可能なことー可能でないこと、の対比がリンクしている。
「・・として見ることができる」と言われるときの「できる」は、意図してできる、の意味を帯びている。

 アスペクトを視ることと表象することは意志に従属している。「これを表象せよ」という命令、「このかたちをそのように見よ」という命令が存在する;しかし、「この葉っぱを今、緑とみよ」という命令はない。(PPF256)

相貌が意志の支配下にあるということは、その本質とは無関係な事実だと言うわけではない。なぜなら、もしもわれわれがさまざまなものを随意に赤と見たり緑と見たりすることができたとしたらどうだろうか。そうなったら人は「赤い」とか「緑の」とかいう言葉を用いることをどのようにして学ぶのだろうか。何よりも、そうなれば<赤い対象>というものは存在せず、せいぜい緑と見るよりも赤いと見るほうが容易な対象が存在するだけ、ということになるであろう。(RPPⅠ976 佐藤訳)

想像が意志の支配下にあるからこそ、想像は外界についてわれわれに何も教えてくれないのである。(RPPⅡ80  野家訳) cf.LPPⅠ177

cf.RPPⅡ492

 ここには「意志できない」領域が存在すること、「として見る」ことにも、そのような領域が存在していること、
それが「知覚」の概念と関係していること、が言われている。

3.

だが、アスペクト視と表象すること、意志的行為を類比におく場合、さまざまな差異も見えてくる。

「驚き」をめぐって。

すなわち、アスペクト転換にとって本質的なのは驚くということだ、と。そして、驚くとは考えることだ。( LPPⅠ565 古田訳)

 それと対照的に、

 随意的運動は驚きの不在によって特徴付けられる、と言うことができるだろう。(PI628)

そもそもアスペクトの転換が知覚主体の 意のままに生じる場合のみでないことは明らかである。

 我々はアスペクトの転換を引き起こすことができる。また、それは我々の意志に反して生じることもありうる。
それは、視線のように我々の意志に従うものでありうる。( LPPⅠ612 古田訳)

 それは表象(想像)も同様である。

想像は意のままになる、ということに対しては、想像はしばしばわれわれの意志に逆って湧き出し、留まり続け、追い払えない、と言うことができる。(RPPⅡ86 野家訳)

他にも次のような相違に気づかされる。

 想像するという意志作用が身体の動作と比較できない、というのは明白である。なぜなら、動作が生じたかどうかの判断は当人以外のものでもできるが、わたくしの表象の動きに関しては、常にただわたくしが見たと主張するものだけがすべてなのである。(Z641 菅豊彦訳)

そもそも<想像のしそこない>ということがあるだろうか。(Z643 菅訳)

 これに対し、「この図の中に、ウサギの姿を、以前見た記憶があるのだけど、今はどこにあるか、認めようとしたけれど判断できない」といった状況は考えられよう。これを「その図をウサギとして見ることに失敗した」と表現することは自然であろう。(cf.PPF203)

4.

先に、ここでの「意志」には、不可能な領域が存在する、と指摘した。その意味で、ここでの「意志」は、単なる「願望」とは区別される、実行力を伴ったものである。あるいは、ここでの「意志」の主体は、その実現の仕方を心得ている、とも表現できよう。
しかし、一方で、「意志」には、どう実現したらよいか、見当がつかないけれども、なおも実現をめざして努力する、といった内容を言う場合もある。それが失敗したままに終わることもあり、成功に達することもある(数学の例)

 誰かが、それをまだやってみたことがないひとに向かって、「君の耳を動かしてごらん」と言うとき、言われた人間はまず、自分の耳の近くの、すでにこれまで動かしたことのあるどこかを動かすであろう。そしてそれから、突然自分の耳が動き出すか、それとも動かないか、のどちらかになる。さてわれわれはかようなできごとについて、彼は耳を動かそうとしている、と言えないであろうか。しかしそれがもし試みと呼べるものなら、それは、われわれが「どうすればよいか知って」いながら、誰かが耳や手を抑えて動きを妨げるとき、それらを動かそうとする試みとはまったく意味を異にしている。最初の意味での試みは、解決の方法が存在しているような「数学の問題を解く」試みに対応している。われわれはいつも、にせの問題に心を砕くことができる。誰かが私に「裸の意志の力で、あそこの壺を部屋の別の隅に動かしてごらん」というとき、私は壺を見つめ、顔の筋肉を使って、おそらく何か奇妙な運動をするだろう。したがってこの場合にすら、ある試みが存在するように思える。(PGⅡ28 坂井秀寿訳)

 そして、昨日に不可能だったことが、今日は可能であることは珍しくない。今日それを意志すること(あるいは、試みること)は、昨日までとは(いわば)違った意味で、可能なのである。(数学の問題の解き方を習った前と後のように)

「意志する」「試みる」の多義性および「移行」の可能性の問題、ウィトゲンシュタインにおけるその重要性、
それをさらに探求することは別の機会にしたい。

5.

意志的行為と「として見る」との類比が行われると、当然、次に問われるのは、意志的行為に関する表現と「として見る」という表現との類比であろう。
ウィトゲンシュタインはそれについても、明確に、とは言いがたいものの、いくつかの示唆を残している。
(次回へ)