比較の体験

1.
定義の表現のように、同一性や類似を提示する言語表現がある。
例えば、「・・・は・・・に似ている」など。
そして、前々回見たように、そのような言語表現の使用の仕方という問題を、
ウィトゲンシュタインは提起していた。

さらには類似を知覚する体験についての表現も、ウィトゲンシュタインの考察の重要な対象となっている。そのことは、改めて注目に値する。

 ある顔と別の顔との類似を見て取ること、ある数学形式と他の数学形式との類似を、判じ絵の描線のうちに人間の姿を、図式のうちに立体を見て取ること、”ne...pas"という表現の中の”pas"を「一歩」という意味で聞いたり話したりすること、-これらすべての現象はとにかく似てはいるが、また非常に異なってもいる。(視覚、聴覚、嗅覚、運動感覚)

それらすべての場合に人は一つの比較Vergleichを体験するということができる。なぜなら、われわれがある比較、ある言い換えをしたくなるということが、この体験の表現の内容だから。
それはその表現が一つの比較であるような体験にほかならない。・・・(RPPⅠ316,317)

 2.
類比を提示する言語表現自体を、ウィトゲンシュタインにならって「比較」(あるいは「直喩」)と呼ぶことができるだろう(例、「AはBに似ている」)。
「比較によって表現される体験」の代表的例は「・・・を・・・として見る」である。あるいは、(上の”ne...pas"の例に示されているように)「・・・で・・・を意味するbedeuten」もまた、それに類する「体験」とみなされよう。

PPFのxi節で、ウィトゲンシュタイン自身が、アスペクト視と「語の意味の体験Erleben einer Wortbedeutung」との類比に言及していることはよく知られている。

-かくして私は、それを様々な仮構的状況に置くのに応じて、それを様々なアスペクトにおいて見ることができる。そしてここに、「語の意味の体験」との密接な類似関係が存在する。(PPF234)

アスペクト盲という)この概念の重要性は、「アスペクトを見る」という概念と「語の意味を体験する」という概念との関連のうちにある。なぜなら、我々はこう問いたいからである:「語の意味を体験しない人には、何が欠けているのか?」(PPF261)

この「比較の体験の表現」の様々な使用が、『探究Ⅱ』xi節の焦点の一つであること、特に、それがはらむ時間様態が問題となることはいずれ見てゆくことになるだろう。

3.
ついでに、この「比較の体験」の表現に、2つのバリエーションがあることに注意しておきたい。
1つは、「AをBとして見る」に代表される形式であり、
もうひとつは、「AとBに類似を見る」、あるいは、「AとBを同じものとして見る」、といった形式である。
大まかに言って、このふたつの形式は相互に変換することが可能である。

後者は、PPFのxi節の有名な冒頭にも現れている。(「私はこれら2つの顔に類似を見る。」(PPF111))