「説明」の周辺(1)

1.

後期ウィトゲンシュタインと「説明」 に関するメモ。

 

『探究Ⅰ』の最初の節に、「説明 Erklärung」に関する重要な主張が早くも登場する。

説明は、どこかで終わるものだ。(PI 1)

この主張は、類似した「理由の連鎖には終わりがある」(BBB p143, RPPⅡ404, Z301)「経験による正当化には終わりがある。終わりがなかったとしたら、正当化ではない。」(PI 485)と一緒に、ウィトゲンシュタインの基本的認識の一つに数えられる。

(PI 29, 87も参照。 以前、「類比」との絡みで軽く触れた。)

 

その後登場する、「説明」が関わる重要な論点で、すぐに思い出されるものは

次などである。

・「言語の原初的形態」における、説明と訓練

話すことを習得するとき、子供が使うのは そのような原初的な形態における言語である。その段階では、言語を教えることは説明することではなく、訓練Abrichtenである。(PI 5)

・哲学は、説明せず、記述するのみ。

あらゆる説明が退けられ、それがあった位置には記述だけが置かれるのでなくてはならない。(PI 109, cf. PI 126)


われわれの錯誤は、事実を<原現象>と見るべきところで、説明を求めるということ。すなわち、かかる言語ゲームが行われている、と言うべきところで。(PI654 藤本隆志訳)

『探究Ⅰ』の中の、「説明」が関係する議論は、それらにとどまらず、非常に数多く存在する。

 しかし、その中で「説明とは何か」が、正面から取り上げられ、問題となるような機会はあっただろうか?

 

2.

いかなる言表が「説明」と呼ばれ、いかなるものがそう呼ばれないのか?

あるいは仮に、ある種の言表が、「説明」と呼ばれるもの と そう呼ばれないもの とに分割できるとすれば、後者、すなわち「説明」に対比されるものは何と呼ばれるべきだろうか?

 

だが、そもそも「説明」一般について問うことは、適切なことなのだろうか?

日常言語での「説明」という概念は、以前触れた「背景の描出」と同様に、多様であいまいなものなのだから。(家族的類似)

ある言表を「説明」と呼ぶべきかどうかに、厳密な決定性、首尾一貫性を求めることが正しいとは限らない。むしろ、その反対だろう。

 

では、特定の種類の「説明」に限定して問うのはどうか?

例えば、次のウィトゲンシュタインの文章は、「意味の説明」に関して、上の問いの一端に触れているが、それ以上の進展を見ずに終わっている。

 「赤い」という語を説明するために、何か赤くないものを指さすことはできないだろうか。これは、ドイツ語に強くない人に「bescheiden(謙虚な)」という語を説明しなくてはならないようなとき、説明のため傲慢な人を指示し、「このひとは謙虚でない」と言うのに似ている。これが多義的だというのは、このような説明に対する反論にならない。どのような説明も誤解されうるのである。

しかし、もちろん、こうしたものまでも「説明」と呼ぶべきなのか、と問うことはできよう。—なぜなら、このような説明は、記号システム(原語Kalkül)において、われわれが通常「赤い」という語の「直示的説明」と呼んでいるものとは、当然異なった役割をするからである。たとえそれが学習者に対して同じ実際的結果、同じ効果を与えるものであったとしても。(PI 28挿入の文章、藤本訳を一部改変)

次では「語の説明」が取り上げられている。述べられている内容は非常に気になるが、その状況も、ウィトゲンシュタインの評言も、抽象的で理解しにくい。

報告として意図された言葉から、ある人が語の説明を導出してしまうこともありうる。[ここに、重大な結果を生むfolgenschwer 偏見Aberglaubeが隠れている。](PI 35挿入の文章)

ここで「説明」と「報告」という、2つの使用が対比され、その混同が重大な問題を引き起こすものとしてとらえられている、ように見える。ウィトゲンシュタインが「重大な結果を生む」と評する意味は、哲学的問題を生む、という意味であろうか。

 

 「語の意味の説明」を、「語の意味」に対して副次的な意義しか持たないものと考えるのは間違いである、とウィトゲンシュタインは考える。むしろ、「語の意味」という概念について理解したいなら、「語の意味の説明」とはどのようなものかという問いを経由しなければならない。

青色本』が次の文章から始まるのは偶然ではない。

語の意味とは何か

この問題に迫るためにまず、語の意味の説明とは何であるか、語の説明とはどのようなものかを問うてみよう。(BBB, p1 )

 

「語の意味とは、意味の説明が説明するものである。」すなわち、「意味」という語の慣用を理解したいのなら、ひとが「意味の説明」と呼んでいるものを調べてみよ、ということ。(PI 560、藤本訳 cf. PGⅠ23)

では「語の意味の説明」を特徴づけるものは何だろうか。

 

そもそも「語の意味の説明」という行為の領域は、シャープな境界線をもっているか?イエス、と答えられないことは、上の引用(PI 28挿入の文章)が示している。

ただ、そのプロトタイプを求めるとすれば、次の2つであろう。

一般的に、われわれが「語の意味の説明」と呼ぶものは、非常に大まかには、言葉による定義と直示的定義とに分けられる。どのようにこの分け方が大まかで仮のものなのかは 後にわかる。(BBB, p1)

この「大まかで仮の話」を受け入れるなら、「語の意味の説明」と「文法的命題」とを類比することは適切となるだろう。

なぜならまず、上で言うように、語の意味の説明に使用される文は、おおよそ、その定義となる文であること。

また、(詳しい検討は行わないが)定義文と文法的命題に類縁性があること。

同じ姿をした経験的命題と数学的命題の差異について、私がもし誰かに大まかなヒントを与えるとしたら、非常に粗っぽく雑な言い方になるが、こう言おう:数学的命題には、つねに、「定義により」という字句を添付することが可能である、と。(WLFM, p111)

(文法的命題と数学的命題の類縁性にも、これまで何度か触れた。)

また、「直示的定義」は、「サンプル」を用いた定義である。「サンプル」を言語の一部と考えれば、「言葉による定義」と同様に扱うことが出来るだろう。

サンプルMuster を 言語の道具の一部と考えることが、もっとも自然であり、それによって混乱を最小限に抑えられる。(PI 16)

以上のごとく、「文法的命題(数学的命題を含む)」ー「定義」ー「意味の説明」、という類縁関係が存在することは認められるだろう。

 

ウィトゲンシュタインがPI 35で言及する事態は、ある事物の偶然的特徴の報告が、聴き手によって、その事物の「定義」、つまり本質を表す言明として受け取られる、という事態として考えることが出来る。

ただし、その事態のみなら、「カンガルー」の命名伝説にあるような、「勘違い」の発生でしかないように思われる。

むしろ、彼の言う「重大な結果を生む偏見」とは、一般的に「定義」や「文法的命題」が「報告」の一種とされてしまいがちなこと、両者の差異が無視されること、を指しているのだろう。

 彼が「文法的命題」と「経験的命題」の混同に、哲学的混乱の大きな源泉を見ようとしたことは知られる通り。( cf. Z458,  RPPⅠ949)

形而上学的探究の特徴は、われわれが言葉の文法に関することを、科学的探究の形式を使って、不明瞭に表現する、ということ。( BBB p 35)

(※当ブログでは、文法的命題、経験的命題 - ウィトゲンシュタイン交点以降、文法的命題の特徴的な使用の一つに着目して議論を展開した。しかし、ウィトゲンシュタインにおける「文法的命題」という概念一般の明確化は、残された課題であり続けている。)

 

3.

さて、上の例は、あくまでも「語の意味の説明」についての話しであって、「説明」一般について述べられているのではない。

「説明/報告」を「文法的命題/経験的命題」に類比することは、通常は適切とは言えない。

一般に「説明」とよばれるものの具体的な例を考えてみれば、それが常に物事を定義するような文からなっているわけではないことはすぐに分かる。偶然的事実の「報告」が「説明」の役割を果たすことは、むしろ普通にみられることである。

A氏は普段、自動車を運転して出勤していた。

ある朝、上司に「君、どうして遅刻したの?」と聞かれて、

駅前通りが渋滞していたんです」と答えた。

 A氏の答えは、普段われわれが「説明」と呼ぶものの一つである。

 「駅前通りが渋滞していたんです」は、偶然的事実の「記述」であり「報告」である。

それは、A氏が遅刻したことの「理由」を示すものであるが、また、遅刻の「原因」の報告である、とも言える。すなわち、ここでの「理由」は、「原因」の報告でもある。

 

このように「説明」の問題を掘り下げようとするとまず、「理由Grund, reasonと原因Ursache, cause」というテーマに突き当たる。

現代哲学の解説では、「行為の因果説、反因果説の対立」が取り上げられ、ウィトゲンシュタインが反因果説の源流に位置づけられていることが多い。

その根拠に、彼が「理由と原因の差異」を強調して論じたこと、一般的に反因果説の代表とされるアンスコムへ大きな影響を与えていること、が挙げられる。

 

しかし、『探究』では、両者の差異が正面から話題にされることは意外なほど少ない。(cf.PI 169, 325, 475。PPF336では、理由と原因の代わりに、動機 Motiv と原因の違いが問われている。)

「理由と原因の差異」は、『探究』においては、あらためて論じられることなく、すでに議論の前提として使われているのである。

(その意味で、「文法」や「規準と徴候」に似た地位にある。)

 

そこで、手掛かりを求めて、『探究Ⅰ』執筆前後の、学生たちによって記録されたウィトゲンシュタインの講義録を開いてみれば、そこには「理由と原因」についての、比較的取りつきやすい発言が多数見出される。

それだけでなく、この問題の異なった奥行きが眼の前に現れてくる。

眺望を開くキーワードの一つは、「美学的説明 aesthetic explanation」である。

 

4.

 「美学的説明」とは聞きなれない言葉であるが、まず次のことを理解しておこう。

 

ウィトゲンシュタインは、「美(学)的」ästhetisch, aesthetic、「美学」Ästhetik , Aesthetics という語を使用して、さまざまな題材について語っている。

ただし、彼が、「美学的探究aesthetic investigation」と呼んでいるものは、大学の美学専攻科で行われているような研究のことではない。

彼が「美学」というテーマの下で取り上げる言語ゲームは、美的判断の表現expression of aesthetic judgement(p8)、美に関する評価、等である。それも、われわれの生活で飛び交う、卑近な言葉が、まずその対象なのである。また、多くの場合に、言葉以上に態度や行為が重要であったりする。

われわれが話題にすべき言葉は<評価されたappreciated>である。評価appreciationは何によって成っているのか。

ある人が洋服屋で無数の見本を見せてもらい、そして言う:「いや、これはちょっと暗すぎる。これは少し派手すぎる」など。その人は生地の評価が分かる人appreciatorと言われる。彼が評価が分かる人間だと知れるのは、彼の発する感嘆詞からではなく、彼が選び、より抜く仕方からである、等。音楽でも似たことがある:「ここ、きれいにハモれているか?だめだ。まだ低音が弱い。ここは、もう少し、違った感じにしたい・・・」このようなものが評価と呼ばれるのだ。(LCA p7)

そこで重要な役割を果たすのは、「美しい」「きれい」という言葉ではない。

美学的議論では「美しいbeautiful」という語はほとんど用いられない、ということに注意。現れるのは異なった種類の言葉、-「適切correct」「不適切incorrect」「正しいright」「誤りwrong」なのである。
われわれは「これは十分に美しい」とは言わない。「美しい」という語はただ、「ごらん、なんて美しいんだ」と言うために、つまり、あるものに注意を引くために使用される。
同じことが「よいgood」という語にも当てはまる。(WLC1932-35, p36)

実生活にて美的判断がなされるとき、「美しいbeautiful」「見事だfine」etc.といった美的な形容詞がほとんど何の役にも立っていないことは注目に値する。音楽批評において美的形容詞は使われるだろうか?そこでは「この移行部をみよ」あるいは、「ここのパッセージは合わない」などと言われる。あるいは、詩を批評する場合、「彼のイメージの用い方は正確だ。」などと言われる。そこで使われる言葉は「美しい」「素敵だ」等よりも、(日常生活で使われる)「正しいright」「適切だcorrect」の方に似ているのだ。(LCA, p3)

「美しい」の、注意を引くという機能、それと異なった「適切だ」「正しい」の機能、に注意しておこう。

彼の言う「美学的説明」「美学的探究」とは、具体的な事象について、「なぜそれが美しいのか」という説明を掘り下げてゆくことである。

人の好き、嫌いを知るために行われる実験は美学ではない。仮にそうであれば、美学とは好みの問題matter of tasteだ、ということになる。だが美学において問われるのは「君はそれが好きか」ではなく、「なぜそれが好きなのか」である。(WLC1932-35、p38)

 

5.

さて、いきなり「美学的説明」を扱うわけにはいかないが、今後の展開への呼び水として、次のことに注意しておきたい。

 

『探究Ⅱ』xi節の内容と、美学に関するウィトゲンシュタインの考察の内容との間には、密接な関連がある。

テクストの表面に現れたいくつかのつながりを見ておこう。

 

一般的にアスペクト知覚論とされる『探究Ⅱ』xi節と 「数学の基礎」論との関連が、「2つの使用」への注目において見いだせることを、当ブログは強調してきた。

「2つの使用」

その『探究Ⅱ』xi節において、数学的な事例と並んで、ウィトゲンシュタインの言う「美学的」な言表の事例が頻出する。

例えば、アスペクト視についての話がしばらく続いた後で、改めてつぎのように問われる。これは議論の要となる重要な問いである。

「私はそれを今・・・としてみる」と言う人は、私に何を伝えているのか?このような伝達はどのような帰結を生じるのか?私はそれによって何をすることができるのか ?( PPF 176, cf. LPPⅠ630)

そこで関連する事例として挙げられているのが、「美的な事象 ästhetische Gegenstände に関する会話」の緒例である。

ここで、美的な事象についての会話で、次のような言葉が使われることが思い出される。「君はそれをこう見なくてはならない。それはこのように意図されているのだから。」「もし、それをそのように見るなら、どこに間違いがあるか、わかるだろう。」「これらの小節は、導入部として聴かなければならない」「この調として聴かなければならない」「それは、こう区切られなくてはならない」(そして、これらは、聞くこと、演奏すること、どちらにも関わってくる。)(PPF 178)

上の引用に「なければならない müssen」が頻出することにも注意。「美学的議論において、適切だ、正しい、といった言葉が役割を果たす」というウィトゲンシュタインの言葉を思い出すこと。

 

 また、次の2つの文章を比べてみよう

君がドアをデザインし、それを眺めて言う、「もっと高く、もっと高く、もっと高く、・・・よし、それでいい。」(身振り)。これは何なのか。満足の表現なのか。(LCA, p13)

 

私は、ある音楽的主題をくり返して、その都度テンポを遅くしながら演奏させる。最後に私は「いまちょうどいい。」とか「いまようやく行進曲だ」とか「いまようやく舞踏曲だ」とか言う。-この口調の中にアスペクトの閃きもまた表れ出ている。( PPF209 )

 

あるいは、次のように言われている。 「美学的探究」と「数学的探究」の類比。

美学の議論でわれわれが行なっていることは、むしろ数学の問題を解くことに似ている。 (WLC1932-35、p38)

 

これらの言葉のみから多くを読み取ることは難しいが、確かに、アスペクト知覚の問題、「数学の基礎」の問題、美学的問題、3者の連関が示唆されている。

もちろん、今の段階ではテクストの表層に現れた連関にとどまっている。それを掘り下げることは今後の課題である。