同一性と規則

1.
同一Gleichheit、一致Übereinstimmung、同一性Identitat等の概念について。

これらと「規則に従う」こととの結びつきが注目される。
たとえば、「その規則に従って数列を続けよ」は、多くの状況下で、「それと同じ仕方で数列を続けよ」といった言葉で言い換えることが可能である。

つまり、規則の教示、規則への正しい従い方の規定、などの場面で、「同じ」「一致する」という言葉が使用される。
例えば、「2+3=5と同じ演算を3と4に適用すれば、7が得られる」のように。
あるいは、
「3+4の、'+'の規則に一致する計算結果は、7であって、8ではない。」のように。

規則の洞察は、同一性の洞察に類似する。

 すなわち、数学的関係の洞察は同一性の洞察と似かよった役割を演ずる。それは複雑な種類の同一性だと、ほとんど言ってもよいくらいである。(RFM Ⅳ 36 中村秀吉・藤田晋吾訳)

 2.

さらに、「規則」と「同じ」の結びつきは外的なものではない。
一見したところ、(たとえば、計算の仕方が)「同じである」「一致する」と言われうることは、「規則に従っている」ことを正当化するかのように考えられるかもしれない。

だが、実のところ、「正しく規則に従う」実践とは独立に、「同じ」であることの内容や、「一致する」の意味があらかじめ定まっているのではない。

 人は、まず「一致」という語の使用を学ぶことで、規則を守ることを学ぶのではない。
むしろ規則を守ることを学ぶことによって「一致する」の意味を学ぶのだ。(RFM Ⅶ39 中村・藤田訳)

「規則」という語の適用は、「同じ」という語の適用と結びついている。(「命題」の適用が「真である」の適用と結びついているように。)
(PI224,225 藤本訳)cf. RPPⅡ400~414

 ウィトゲンシュタインがよく持ち出す数列の例で言うなら、
「1002, 1004, 1006, 1008と続けてきた数列の次に1010と続ける人は、それまでと同じことをしているから、規則に正しく従っているのだ。」と言うことは、
単に、「1002, 1004, 1006, 1008の次に1010と続ける人は規則に正しく従っている」と主張することに等しい。

同様に、

 「彼が、それぞれの場合に何か異なったことをするならば、われわれは彼が規則に従っているとは言わないであろう」と言うことに意味はあるだろうか?いや、ないのだ。(PI227)

 3.

「同じであること」、「一致」、「類比」には理由が尽きてしまう地点が存在する。それは「規則に盲目的に従う」(PI219)「わたしは固い岩盤に達し、鋤は反り返ってしまう」(PI217)と言われている地点である。

 彼は理由も無く、そのように続けるに違いない。だが、それはかれにその理由をまだ把握させることができないからではなく、ーこの体系にはーいかなる理由も存在しないからである。(「理由の連鎖には終わりがある」)また、(「そのように続ける」の中の)そのようにということは、ある数字ないしは数値によって表される。なぜなら、この段階においては、規則の表現がその数値によって説明されるのであり、その数値が規則によって説明されるわけではないからである(RPPⅡ404 野家訳、cf.Z301)

 これ以上の説明は省くが、「理由の連鎖には終わりがある」、ウィトゲンシュタインが何度も繰り返すこの主題(規則遵守の問題や「根源的規約主義」と関連する)と、類比(「そのように」という言葉で示されている)の問題が結びついていることを上の断章は示している。

4.

規則の教示に使用される言葉、、規則への正しい従い方の規定などの場面で使用される言葉とは、規則の表現であり、ウィトゲンシュタインが「文法」と呼ぶものに他ならない。
(例えば、上に挙げた、「2+3=5と同じ演算を3と4に適用すれば、7が得られる」は、端的に「3+4=7」と表現できる。どちらも、規則の表現と呼ぶことが可能である。)

それに関連して、ウィトゲンシュタインは、「同じ」「似ている」、「類似した」という言葉に2種類の使用がある、と指摘している。

 良い表現の仕方ではないが、次のように言うことができよう。「同じ」、「似ている」、「類似した」といった語はそれぞれ、2つの違った意味で使用されると。(私はこの講義の中で、これらの言葉について多くのことを語るであろうが、それらの内の一つについて言うことは、それらのどれにも当てはまるであろう)
(・・・)
「われわれは、彼に100までの掛け算を教えた、それから、彼は同じように行った」「君に、これに似たものを描いてもらいたいのだ」-われわれは何を語っているのか?
他方、子供にある過程が他の過程に類似していることを示そうとする場合は、こう言う、「ご覧、これはあれには似ていない。でも、これはこちらのものに似ている。確かに、この2つは似ているね」「こうすることに似ているものは?これ?それとも、これかな?」等。-さて、ここでは、われわれはどんな種類のことを言っているのだろう?本当のところ何を?この場合、我々は何かを記述しているのだろうか?先のの場合では、われわれはあるものを記述していた。しかし、今度の場合は「似ている」のもう一つの使い方の例なのだ。
(1) われわれは、ある特定のパターン、例えば、壁紙のパターンを記述して言う、「それは、これこれに類似している」
(2)「これは類似したケースであるが、あれはそうではない」-これは前者とは非常に異なっている。この場合、われわれは二つのものを前にしている。ところが、前の場合、我々はただ一つのものを前にして、「類似した」という言葉によってもう一つのものを記述していた(あるいは、他者に新たな行為を命じていた)。
(・・・)
だが、もう一方の場合には、われわれは、2つのものを前にしており、事情は全く異なっているのだ。私が「確かに、104と書くことが同じように行為するということだ」「確かに、これは同じパターンである」と言う場合-私は彼に「同じ」という言葉で自分が何を意味しているか語っているのだ。(LFM p58-59)

 (2)の場合が、すなわち、規則の表現あるいは文法 としての使用に該当する。

この極めて重要なポイント(ウィトゲンシュタインの中心的テーマと言ってもよい程の)は、「・・・として見る」との関連でも論じられなければならない。