違いを教える

1.
ウィトゲンシュタインの弟子で親しい友人でもあったDruryは、ウィトゲンシュタインの個人的な会話での発言を、次のように伝えている。

私には、ヘーゲルは、違って見える物事が本当は同じものなのだと、いつも言いたがっているように見える。それに対して、私の関心事は、同じに見える物事が実際には違っていることを示すことなのだ。私は、自分の著作のモットーに、こんな「リア王」からの引用を使おうかと考えたものだ:「お前に違いというものを教えてやる。」(Recollections of Wittgenstein, p157)

 自身で言うように、『哲学探究』でウィトゲンシュタインの行おうとしたことは、何よりもまず、様々な言葉の機能の「差異を教える」こと、つまり「自分たちの日常的な言語形式によって容易に見過ごし(ubersehen)てしまう諸々の差異を、常に繰り返し際立たせる(PI 132 )」ことだった。

この姿勢は、『論考』におけるウィトゲンシュタインの「根本思想」につながりをもっている。

 命題の可能性は記号が対象の代わりをするという原理に基づいている。
「論理定項」はなんらかの対象の代わりをするものではない。事実の論理は記号で表しえない。これが私の根本思想である。(TLP 4.0312, 野矢茂樹訳)

 「名」が代表の機能によるのに対して「論理定項」は代表の機能によらない、という、語の機能の仕方の基本的差異の洞察こそ、若きウィトゲンシュタインが自らの「根本思想」と呼んだものであった。

言葉の機能の仕方の多様性について、探求には次のような比喩が登場する。

 道具箱の中に入っているいろいろな道具について考えよ。そこには、ハンマー、やっとこ、のこぎり、ねじまわし、ものさし、にかわつぼ、にかわ、くぎ、ねじがある。-これらのものの機能がさまざまであるように、語の機能もさまざまである。(しかも、類似点があちこちにある。)(PI 11 藤本隆志訳)

それは、ちょうど機関車の運転席をのぞきこむようなものである。そこにはいろいろな取っ手があるが、そのどれもが多かれ少なかれ同じように見える。(・・・)しかし、あるものはクランクの取っ手で、連続的に位置を変えることができるし、(・・・)あるものは切り替えスイッチの取っ手であって、二つしか作用する位置をもたず、スイッチが入っているか切れているかのいずれかである。(PI 12 藤本訳)

 道具箱の比喩は『文法』PGⅠ31以来のものであり、運転席の比喩はさらに古く、『考察』PR13に登場する。いまだ『論考』の影響が強い時期から、「全考察の転回」(PI108)を経た後にいたるまで、これらの比喩が生き延びたのは、ウィトゲンシュタイン自身の、生涯を通じての根本的洞察をよく表現していたからに他ならない。その洞察とは、言語(言語ゲーム)の(機能の仕方の)多様性、という洞察であった。

言語ゲームの多様性という主題は、『論考』における「語られるものと示されるもの」のテーマに関連する。『論考』において言語の多様性は、いささか神秘性を帯びてみえる「語られるものと示されるもの」の対立に集約されたかのようである。後期のテクストは、それを世俗的な姿に戻した上で、継承したといえるかもしれない。

2.

では、なぜ、差異の強調なのか?ウィトゲンシュタインにとって、なぜ「差異を教える」ことが重要なのか?

それは、言語ゲームの差異、多様性を看過し、単一化されたモデルによって説明しようとすることが哲学的混乱の源だからである。

例えば、「記述」という概念について。

 どれほどさまざまな種類のことが「記述」と呼ばれているか、考えて見よ。座標による物体の位置の記述、顔の表情の記述、触覚の記述、気分の記述。
もちろん、疑問文という通常の形式に代えて、確認とか記述とかの形式をとることができる。たとえば「・・・かどうか知りたい」「・・・かどうか疑問である」等。-しかしそのことによって、異なった言語ゲームが互いに近似するようになったわけではないのである。(PI 24 藤本訳)

 「指示」「記述」等に関する単純化された概念を、あらゆる言語ゲームに適用するとき、人は使用における重大な差異を見過ごしてしまう。このことを彼は繰り返し、示そうとしている。