1.
『数学の基礎』に、次のような文章がある。これは、仮に自らの後期哲学全般に関する告白として読むなら、非常に示唆的な文章のように思われる。
「われわれのごとく、ある真理について直接的に洞察するunmittelbar einsehenことなく、おそらくは帰納という時間のかかる道によって導かれる者」とフレーゲは言う。だが、私が関心をもつものは、それが真であれ偽であれ、この直接的洞察なのである。私は問う:何かを<直接に洞察>している人間に特徴的な振る舞いはなんであるのか?-この洞察の、実践上の成果が何であろうと。
私に関心があるのは、ある真理の直接的洞察ではなく、直接的洞察の現象である。(それも)ある特別な心的現象としてではなく、人間の行為における現象としてである。(RFM Ⅳ 32)
2.
ここで「直接的洞察das unmittelbare Einsehen」と呼ばれているものは何であろうか。彼は何ら具体例を挙げていないから、それについては読者が推測する他にない。ただし、数学論の文脈中に記された文章であるから、数学的な判断の例が念頭に置かれていると受け取るのは自然であろう。
その典型と言えるのは、例えば次の数列の例であろう。
数列+2の続きでは、
「20004,20006」 と書かねばならず、
「20004,20008」 と書いてはならないことを、私はいかにして知るのか?
(「この色が<赤い>ことを私はいかにして知るのか?」は似通った問いである。)・・・(RFMⅠ3)
すなわち、「数列+2の続きは、20004,20006,・・である」を、この場合の「直接的洞察」としよう。
注目されるのは()内の文章であって、それは「規則に従って数列を継続すること」と「感覚の言語の使用」に類比されるべきものがあることを示唆している。
(よく知られるように、クリプキもこの類比に注目した。『ウィトゲンシュタインのパラドックス』黒崎宏訳p36)
「この色は<赤>である」という判断は、直感的に了解される数学的判断(たとえば「20004+2=20006」)に類比して、「直接的洞察」と呼ぶことができよう。
それは、即座に迷うことなく判断されるのであり、「推論」や「推測」によってもたらされるのではない。
また、それらには根拠づけや正当化が存在しない。
以前見たように、類比や同一化の行為が持つ「理由なしにそうする」という次元をウィトゲンシュタインはたびたび強調していた。
語を正当化なしに使うということは、その語を不当に使うということではない。
先の言語ゲームの問題は、もちろん、私に何か赤いものを持ってこい、ということのなかにもある。というのは、何によって私はあるものが赤いことを認識するのか。その色が見本と一致することによってか。-いかなる権利で私は「そう、それは赤い」というのか。さあ、私はそう語る、そしてそれは正当化されえないのだ。(RFM3rdⅦ 40 中村秀吉・藤田晋吾訳p366)2つの表象が同じであるということの規準は何か?ーある表象が赤いことの規準は何か?私にとって、他者が表象する場合には、その人の言動である。しかし、私自身が表象しているとき、私にとってその表象の赤さの規準などは、何もない。そして、「赤さ」について言えることは、「同じ」についても言える。(PI377)
3.
種々の言語ゲームで、さまざまな判断が推論なしに、また根拠や正当化なしに「直接的に」なされること、それをウィトゲンシュタインは幾度も繰り返し確認している。
彼の挙げたさまざまな言語ゲームから、ごく一部の事例を取り出してみる。
想起
人が私にこの二時間のあいだに何をしたかを問うならば、私はそれにじかに答えるのであって、ある経験からその答えを読みとるわけではない。それにもかかわらず、私は過去を想起したのであり、これは一つの心的過程である、と人は言うのである。(RPPⅠ105 佐藤徹郎訳)
知覚判断
私は、砂糖はそのような味だったことを思い出す。その体験が私の意識によみがえってくる。もちろん、こうも問われよう:それが以前の体験であるということを私はどのようにして知るのか、と。(・・・)
しかしながら私が、「それはまさに砂糖の味だ」と言うとき、ある重要な意味では、想起することは起こっていないのである。それゆえ、私は自分の判断や叫びの根拠をもっていないのである。(Z659 cf.RPPⅡ351~)
自分の意図や意味することの知
「わたくしは自分の言いたかったことを精確に知っている!」でも、わたくしはその何たるかを言ってはいなかった。-でも、わたくしはそれを、そのとき起こって[現在]自分の記憶にある何か別の出来事から読みとるのではない。
また、わたくしはそのときの状況とそのときの先行事象[先史]を解釈しているのでもない。というのは、わたくしはそれらを熟慮しているのではなく、判断を下しているのでもないからである。(PI637 藤本隆志訳)その状況が曖昧な場合、わたくしが彼を意味しているmeinenかどうかが疑わしくなるだろうか。自分が彼を意味していたか否かを語る場合、わたくしはその状況から判断しているわけではない。では、その状況からでないとすると、何によって判断するのか。一見するところ、まったく何によってでもない。(Z27 菅豊彦訳)
体性感覚
しかし、その意味するところはただ、私は自分の腕がどのような位置にあるか端的に知っているのであり、-何らかの理由からそれを知っているのではないーということにすぎない。ちょうど私は自分がどこに痛みを感じているか知っているーしかし何らかの理由からそれを知っているわけではないーというのと同様である。(RPPⅠ786 佐藤徹郎訳)
感情
「どうかわかってほしい、私は怖いんだ」
「どうかわかってほしい、わたしはそれが怖いのだ」
そう、この言葉を、人はにこやかな調子で言うこともできるのだ。
その上でなお、君は、その人が恐れを感じていない、とわたしに言うのか。感じていないなら、彼はどうやってそのことを知るのだろう?-しかし、たとえその言葉が一つの伝達であるとしても、その人は、自分の内面からそれを読み取るわけではない。また、彼は自分の言葉の証拠として自らの感覚Empfindungenを持ち出すこともできないだろう。感覚が彼に教えるのではないのだ。
(LPPⅠ39 cf.PPF5)
思い違い
ここで、これらの事象に光を投げかける、独特な種類の思いちがいについて考えよ。-私は知人と一緒に町の周囲を散策しに行く。会話の中で、私が町は自分たちの右方にあると思い込んでいることが明らかになる。この思い込みの内容については、私には自分が気付くどのような根拠もない。そして、少し考えてみれば、町はわれわれの前方左の方角にあることを私は納得できよう。私が町をこの方向にあると想像しているのはなぜか、という問いに対して、私は最初、どんな答も挙げることができない。わたしには、そう信じる根拠は何もなかったのだ。だが根拠はないものの、私は何らかの心理学的原因を見ているように思われる。確かに、ある連想と記憶がある。たとえば、われわれはある水路に沿って歩いたのだが、私はそれ以前に同じような状況の下である水路に沿って行ったことがあって、その際には町がわれわれの右方にあった、というような。ー私は根拠のない信念の原因を、いわば精神分析風に見出そうと努めることができるだろう。(PPF268 cf.RPPⅠ792, LPPⅠ789)
これらの判断を、先に引用したRFM Ⅳ 32の言葉を借りて、類比的に「直接的洞察」と呼んでみたいと思う。
※ここでそうするのは一つの有効な視点を提示するためであり、実際にウィトゲンシュタイン自身がそう呼んだと推測しているわけではない。
4.
このように例を挙げてゆけば、(通常の使用においては)正当化、理由付けの行われない様々な言語ゲームに、ウィトゲンシュタインの関心が、繰り返し向かっていたことは明らかである。
テクストに頻出する「何らかの理由からではない」「推測するのではない」「観察に基づいていない」等の語句は、共通した問題意識を示している。
そして、それぞれのテクストに立ち返って読むなら、ウィトゲンシュタインの関心は、確かに、それらの判断の内容の真理性に向けられているのではなく、行為としての側面に向けられていることに気づくだろう。
私に関心があるのは、ある真理の直接的洞察ではなく、直接的洞察の現象である。(それも)ある特別な心的現象としてではなく、人間の行為における現象としてである。(RFM Ⅳ 32)
5.
これまで挙げてきた判断には2つの側面がある:
A.直接に知られる。何らかを媒介して推測されるのではない。(プロセス)
言い換えると、それらの判断は、判断の主体によって直接表明されるのであり、「推測」や「推論」といった、言語ゲーム上の媒介的ステップを要しない。
B.通常、経験的事実によって正当化されない。(正当化の無さ)
この2つの点において、「痛みの表出Äußerung」を、これらの「直接的洞察」による判断の典型例とみることができそうだ。
「私は歯が痛い。」を例にとると、表出する者は表出の内容を推測によって知るのではない。(「私は歯が痛い、のだと思われる」という発言は奇妙であろう。)また、私自身にとって、「歯が痛い」という事実は、虫歯や歯周炎等の存在非存在によって検証されるものではない。
ウィトゲンシュタイン自身、次のような判断と痛みの叫びとを類比させて論じている。
かりにわたくしに同名の友人が二人あり、その一人に手紙を書く場合、別の一人に書いているのではない、ということはどうして成り立つのか。(・・・)もし誰かが、わたくしに「お前は両者のどちらへ宛てて書いているのか」と尋ね、わたくしがそれに答える場合、先行する事情からその答えを引き出すだろうか。丁度、「わたくしは歯が痛い」という場合と同じやり方で、それに答えるのではなかろうか。(Z7 菅訳)
いままで挙げてきた判断の例は、アンスコムの言う「観察に拠らない知識 knowing without observation」(Anscomb, Intention, p13)に類比させることができるだろうか。(ただし、「思い違い」も含んでいるが。)
※アンスコムが、行為者自らの意図的行為intentional action に関する知を「観察に拠らない知識」と呼ぶ際、意図的行為の理由は、上で言うところの根拠、理由ではないことに注意しておきたい。上で述べた根拠、理由は、認識の根拠なのである。
ただし、きわめて重要なことであるが、ウィトゲンシュタインは、痛みの表出のような「発言」を、知識と呼ぶことを拒絶する。
だから、もし「私は歯が痛い。」のような表出も「直接的洞察」に含めるなら、ここでそう呼んできたものは、知識と 知識とは呼べないもの の両者にまたがっている。