表出のディレンマ(1)

1.

「現象」と「指し手」 - 迷光録

の続き。
「表出」という概念を持ち出すことに対する、別の有名な異議について。

 「かりに私が痛みを感じるとしたら・・・」-これは痛みの表現Schmerzäußerungではなく、したがって痛みを表す振舞いでもない。
「痛み」という言葉をまず叫びAusrufとして学び、それから過去の痛みについて語り始める子供ーそうした子供はある日突然「僕が痛みを感じるとお医者さんが来る」と語るかもしれない。ではこうした学習の過程で「痛み」という言葉は意味が変化したのか。この言葉の使用法は変化した。だが、人はこの変化をその言葉に対応している対象の変化として解釈しないように用心しなければならない。(RPPⅠ479 佐藤徹郎訳)

 「私は痛みを感じる」は、表出であり、うめき(叫び)に類比されるような言語使用をもつ、と認めたとする。
その場合でも、「仮りに私が痛みを感じるとしたら・・・」は痛みの表出でなく、痛みを表す振舞いでもないことは明らかである。同様に、「彼は痛みを感じている」も痛みの表出ではない。

だが、そう認めるなら、次のような「表出説」への反論(フレーゲ-ギーチ問題)は避けられないように見える。

では、単独で言表された「私は痛みを感じる」と、「仮りに私が痛みを感じるとしたら・・・」の中の「私が痛みを感じる」は異なった意味をもつのか?
もしそうならば、
A:「私は痛みを感じる」
B:「仮りに私が痛みを感じるとしたら、私は出勤しなくてもよい。」
の2つから
C:「私は出勤しなくてもよい。」
を導くことができなくなってしまう。
なぜなら、Aの「私は痛みを感じる」とBの中の「私が痛みを感じる」は異なった意味をもっているのだから、modus ponensは適用できないはず。
しかし、現実にわれわれは、上のような推論を妥当と見なしているではないか?

 

フレーゲ-ギーチ問題は、色々な「非記述的言語表現」とそれが含まれる複合的言語表現の間の関係について、広く様々なかたちで問うことができるが、ここではmodus ponensの例で代表させた。また、modus ponensの妥当性の根拠に関する問題(例えば、真理条件的意味論が必要か否かなど)についてはこの場では立ち入らない。

2.
フレーゲ-ギーチ問題は、次のような形式をとっている。
「もし、表現Aが、単独で言表される場合と条件文の条件節の中で使用される場合とで異なった意味をもつのなら、なぜmodus ponensが適用可能になるのか?」

ところで、ウィトゲンシュタインが、これと対照的な形式をもつ問いを提出していたことが思い出される。

 ムーアのパラドックスは次のように言い表せる:「事態はそのようであると、私は信じる」という表出Äußerungは「事態はそのようである」という主張Behauptungに似た使い方をされる;ところが、事態はそのようであると私は信じる、という仮定Annahmeは、事態はそのようであるという仮定に似た使い方はされない。


このように、あたかも、「私は信じる」という主張が、「私は信じる」という仮定が仮定する内容を主張することではないかのように見えるのだ!


同じように:「雨が降るだろう、と私は信じた」という言表Aussageには、「雨が降るだろう」に似た意味、すなわち類似した使用がある。しかし、「雨が降るだろうと、その時私は信じた」には、「その時、雨が降った」に似た意味はない。(PPF87-89)

 もし、「わたくしは信ずる」が、単独で言表される場合と条件文の条件節の中で使用される場合とで同じ意味をもっているのならば、なぜ「わたくしは雨が降っていると信じている。そして雨は降っていない」がナンセンスでありながら、他方で「私が雨が降っていると信じ、かつ雨が降ってない、と仮定すれば、私はドアから出た途端に驚くだろう。」と言えるのか?(あたかもナンセンスな文を条件節に移すと、ナンセンスでなくなるかのように。)

 

ここにディレンマと言うべき状況がある。
一方では、「「信じる」の意味が、単独での主張の場合と複合文のなかに登場する場合とで異なるのなら、なぜmodus ponensのような言語使用が可能なのか?」と問われるだろう(フレーゲ-ギーチ問題)。
しかし他方では、「「信じる」の意味が、単独での主張の場合と複合文のなかに登場する場合とで同じならば、なぜムーアのパラドックスのような言語使用の違いが生じるのか?」と問われるのだ。

3.

ウィトゲンシュタインが記述と区別される表出の概念を必要とした理由が何であるにせよ、その区別が現実の「使用の差異」に基づいていなければ、区別の導入は説得力を失う。
上で見たように、「信じる」については、現実の「使用の差異」を認めた。
と同時に、区別を否定する論拠になるような、現実の使用も存在していた。


「痛みを感じる」についても実は似たような状況にある、とみることができる。

「私は痛みを感じる」と「彼は痛みを感じる」で、それぞれの「痛み」が同種の事象を意味しているのならば、どうして「私は彼が痛みを感じているかどうか疑う」「彼は私が痛みを感じているかどうか疑う」と言えるのに「私は私が痛みを感じているかどうか疑う」「彼は彼自身が痛みを感じているかどうか疑う」がナンセンスになるのか?

「私は痛みを感じる」の意味が、単独での主張の場合と複合文のなかに登場する場合とで異なるのなら、なぜmodus ponensのような言語使用が可能なのか?

 

ウィトゲンシュタインの立場では、ムーアのパラドックスも、「私は私が痛みを感じているかどうか知らない」の無意味性も、論理的(文法的)であり、例えば、命題論理のシンタックスを受け入れた後で追加的に受け入れられるべき規則ではない。おそらく、彼にとって、諸々の文法はすべて同一の平面上にある。(むろん、ムーアのように、これに反対する立場の者も少なくないだろう。)

彼(ムーア)が言いたかったのは、そのパラドックスが形式的な矛盾において問題がないので、論理的と言うよりもむしろ心理学的理由から不合理であるというのであった。このことをウィトゲンシュタインは強力に拒絶した。(ムンク、『ウィトゲンシュタイン』、邦訳2巻p601、岡田雅勝訳)

言明を意味あるものにしたり意味ないものにするのは何か、という探求はすべて、ウィトゲンシュタインには論理学の一部であった。そしてこの意味において、「論理学は論理学者が考えているようには単純ではない」と指摘することは、彼自身の探求の主要な関心の一つであった。(ムンク、『ウィトゲンシュタイン』、邦訳2巻p602、岡田訳)

まとめると、
表出としての使用を持つ心理的概念は、非-表出的使用も持っている。
表出的使用と非-表出的使用とで、同じ意味をもつと考えても、違った意味をもつと考えても、ある(現に行われている)言語使用が説明困難に陥る、
というディレンマがあるのだ。

4.
だが、このデイレンマは「窮地」ではない、というのがウィトゲンシュタインの立場だ、と思われる。
むしろ、デイレンマの認識は、次のようなウィトゲンシュタインの「治療方法」に沿うものだ、と言えるのである。

私のやり方は、最初は当惑を覚えていなかったような同型の事例をとりあげ、それに関して、人がいつでも当惑を覚えるような事例と同じ困惑を引き出してみせることにある。(WLC32-35 p58 野矢茂樹訳)

「信じる」の非-表出的使用、すなわち、「あなたは信じますか?」「もし私が信じているとすれば・・・」「私はその時信じた」等・・・を、存在して当然とみなし、「信じる」の意味は一貫して同じであるはず、と考える立場からは、ムーアのパラドックスが、説明されなければならない謎にみえるだろう。
だが、例えば、「私はそうであると信じる」ということが「そうである」という主張の音調によってのみ表現されるような言語(PPF98)を専ら使用する者からは、「信じる」の非ー表出的使用の方が奇妙な現象に見えるかもしれない。

 「信ずる」「願う」「欲する」といった動詞が、「切る」「噛む」「走る」といった動詞もまたとるような文法的形態をすべて示すことを、自明のこととは見なさず、何かきわめて奇妙なことと見なせ。(PPF93 藤本隆志訳)

 

(「それを自明のことと思うな」-このことは、あなたを不安にする他の物事に驚くように、それに驚け、ということである。そのとき、問題になっていることがらは、あなたがその一つの事実を他の事実のように受け取ることによって、消滅するであろう。)(PI524 藤本訳)

 

しばしば哲学は、単に「ここに困難がないのは、そこに困難がないのと同じだ」と言い、それによって問題を解消する。
つまり、以前には問題の無かったところに敢えて問題を呼び起こすことのみによって。
「・・・ということも同じくらい奇妙ではないのか」と哲学は言い、それでことを済ませるのだ。(RPPⅠ1000)

 デイレンマは、現実の言語使用に公平に目を開くことに役立つ。
「同じ意味であるか否か」という問いを脇に置いて、言語的現象そのものを見れば、「私は雨が降っていると信じる」の表出としての使用(ムーアのパラドクスが示すような)も、「私は雨が降っていると信じる」へのmodus ponensの適用も、われわれが現に行っている言語的事実として受け入れる他はない。
すなわち、「私は信じる」を、単純に「叫び」や「うめき」と同一視することも、反対に「記述」と同一視することも、偏った見方なのである。(「ひとは自分の思考を、ただ一種類の諸例のみによって養おうとする」PI593)

「私は信じる」は、表出としての使用、心的状態の記述のような使用(cf.PPF102)、いずれをも持っている。しかし、どちらか一方の使用を説明するモデルのみで、「信じる」のすべての使用を説明することは困難なようである。そのことがデイレンマから見て取れる。

われわれの錯誤は、事実を<原現象>と見るべきところで、説明を求めるということ。すなわち、かかる言語ゲームが行われていると言うべきところで。(PI654 藤本隆志訳) 

「私は痛みを感じる」は、「うめき」モデルとも、「記述」モデルとも、部分的にしか一致しない。部分的に一致するからといって、一方のモデルで全体の使用を解釈してはならない。

ここでは様々な概念がふれあい、ある範囲で一致している。線はすべてである、などと信じてはならない。(PPF108)

だが、「私は怖い」が、時に悲嘆に似ているけれど常にそうなのではないからといって、なぜ常に心的状態の記述であるということになってしまうのか?(PPF85)

 

 では、「信じる」や「痛みを感じる」の意味(使用)をどのように捉えたらよいのだろう?異なった使用のつぎはぎであると言うべきなのだろうか?