「現象」と「指し手」

1.
「表出」「叫び」、「記述」「報告」。ウィトゲンシュタインによるこれらの概念の使用が 曖昧で明確さに欠ける、という批判には 「確かに」と言わざるを得ない。だが、それ以前に、根本的な異議が唱えられるかもしれない。

「かりに私が痛みを感じるとしたら・・・」-これは痛みの表現Schmerzäußerungではなく、したがって痛みを表す振舞いでもない。
「痛み」という言葉をまず叫びAusrufとして学び、それから過去の痛みについて語り始める子供ーそうした子供はある日突然「僕が痛みを感じるとお医者さんが来る」と語るかもしれない。ではこうした学習の過程で「痛み」という言葉は意味が変化したのか。この言葉の使用法は変化した。だが、人はこの変化をその言葉に対応している対象の変化として解釈しないように用心しなければならない。(RPPⅠ479 佐藤徹郎訳)

では、誰かが「怖いんだ」と言うのを私が聞くとき、私はどうやって、それが「ある心的状態の記述」なのか、それとも何かそれ以外のものであるかを知りうるのだろうか。・・・-そしてその言葉は、どのように表出されようと、同じ事柄を、すなわち彼の心的状態を、私に教えてはいないだろうか。(LPPⅠ43 古田徹也訳, cf.LPPⅠ44)

 もし、「表出」と「記述」があいまいな境界をもっていて、移行的な例やどちらかに決めがたい例が少なくないのなら、その差異にこだわることに意味があるだろうか?むしろ、ある言表(例えば「私は右の歯が痛い。」)が、「表出」であろうと「記述」であろうと、同じ「現象」を「指示する」のならば、その「現象」こそが、言語使用に関する、尊重すべき客観的事実なのではないか?だから、「現象」の解明が第一の課題であって、言表の使用の解明は二の次ではないか?等々。

2.
これに対し、ウィトゲンシュタインは、後に同じ問題を再び取り上げて言う。

子どもが、自分の痛みを表す最もプリミティブな言語表現を学び、-それから、過去の痛みを説明するということを(も)始めるようになる。-その子は、調子のよい日に、「痛くなったらお医者さんが来るんだ」と説明することができるのである。では、「痛み」という言葉を学ぶこうしたプロセスのなかで、この言葉の意味は変わったのだろうか。-然り。この言葉の使い方が変わったのである。

しかし、この言葉は、プリミティブな表現のなかで使われる場合も、文のなかで使われる場合も、同じものにーすなわち、同じ感じGefühlにー結びついているのではないのか。もちろんそうだ。ただし、同じ技術に結びついているのではない。(LPPⅠ 899 古田訳)

同じ現象に関わる、と言うだけでは話は済まない、「技術」の違いが重要である、と彼は主張する。「技術」は、言語ゲームに関わる概念である。「表出」と「記述」の差異とは、それぞれが組み込まれた言語ゲームの差異から把握されなければならないのである。

3.
「信じる」という概念の例をみよう。
ムーアのパラドクスとは、「私がAと信じていたら」という仮定は「私」の心理状態の記述のように使われるのに対し、「私はAと信じている」という表明は、「私」の心理状態の記述であるよりもむしろ「Aである」という記述のように使用され、「Aでない」という言表と矛盾する、という事実である。
だが、「私がAと信じていたら」という仮定を単に心理状態の記述とみなす把握に対して、ウィトゲンシュタインは異議を唱える。

 かの仮定においてすでに、君が考えているのとは違った方向に線は向かっている。
「私が・・・と信じる、と仮定すれば」という言葉の中に、君はすでに「信じる」という言葉の全文法、君がマスターしている通常の使用を前提している。ー君は、いわば一つの像が眼の前にはっきりと呈示できるような、物事の状態を仮定(そのような仮定の内容に、通常とは異なった主張が継ぎ足されることができるような)しているのではない。ー君がすでに「信じる」の使用に習熟していなかったなら、君はここで自分が何を仮定しているか(つまり、例えば、その仮定から何が成り立つか)を知らないであろう。(PPF106)

 

 「・・・を信じる」は、(例えば)事物の画像に類比するよりもむしろ、ゲームの一手にたとえるべきである。
そのことは、例えば、Verstellen「偽装する」「ふりをする」という概念についても同様である。

 つまり:彼の中で進行するものは、これまた一つのゲームSpielなのであり、ふりをすることは、彼の中で、ある感じGefühlのように現前しているのではなく、ゲームの指し手Spielのようにあるのだ。
なぜならまた、彼が自分に話しかける場合でも、彼の言葉は言語ゲームの要素である限りにおいてのみ、意味をもつのであるから。(LPPⅡp31)

これは、心理的概念一般を、感じ、感覚に類比して捉えようとする傾向に対する、総括的な批判とも見なせるだろう。

つまり、一般的に、心理的概念は、感覚、あるいは物理的状態(例えば脳の状態のような)よりも、「ゲームの中の一手(指し手、プレー)」に類比すべきなのである。

※あるいはまた、Spielは、演技や劇という意味も持っている。

3.
それゆえ、語に対応する現象を発見することで解明が終わるわけではない。
「何が起こったか」という問いに答えるだけでは十分でないのだ。

 類似が私の注意を引き、その後、類似に対する注意は薄れてゆく。
類似は、数分間私の注意を引いたが、その後はもはや注意を引かなかった。
この場合、何が起こったのか?-何を私は思い出せるだろうか?私自身の顔の表情が思い浮かぶ。それを私は真似てみることができよう。私を知る人が私の顔を見ていたなら、「いま、彼の顔の何かが、君の注意を引いている」と言ったかもしれない。ーまた、私がそのような折に声に出して言うこと、あるいは自分の心の内で言うことが、思い浮かんでくる。で、それがすべてだ。-では、それが注意を引くということなのか?そうではない。それは、注意を引くということの現象だ;しかし、そのような現象こそが<起こったこと>なのだ。(PPF244)

「注意を引くこと」は、「注意を引くという現象」とは異なった(しかもなお関係のある)種類のの概念である。(LPPⅡp17)

 ある心理的概念を「そのとき何が起こっているか」に注目して解明しようとすると、当の概念の性格を取り逃がしてしまうことがある。(その際、「感覚への類比」が誤解を助長することもある。)「何が起こっているか」という問いは、しばしば不適切irrelevantな問いとなることを、ウィトゲンシュタインは繰り返し強調する。

 表象とは何か、ひとが何かを表象する際に何が起こっているかと問うてはならない。「表象」という語はどのように使われるのか、と問うべきである。(PI370)

こう問うてはならない:「われわれが、・・・を確信しているとき、われわれのうちにおいて、何が起こっているのか?」-そうでなく、「・・・である」という確信は、人間の行動の中で、どのように表現されるのか? と、問え。(PPF339)

 4.
ある心理的概念を解明する、とは、それが登場するゲームの性格づけを行うことでもある。
その観点から見ると、以前取り上げた「irrelevantな問いも状況によって有意に使用される」という現象は、その心理的概念が登場する言語ゲームが一様なものではない、という事実に基づく。

心理的概念の特徴づけはゲームに相関的に行われる(つまり、「現象」の分類ではない)ゆえに、
例外の存在は、必ずしもある特徴づけを無価値にするものではない、と(ウィトゲンシュタインの立場からは)言えるだろう。
そのような例外的な使用は、例外的なゲームに登場するのである。

そして、一般的なゲームと例外的なゲームの区別が、必ずしも線で引いたような明確なものでないとしても、
区別すること自体は、さまざまな実践的な意味を持ちえる、と、ウィトゲンシュタインは主張するだろう。
大まかな「心理的概念の分類の試み」も、現象の分類ではなく言語ゲームの性格づけとして、相応の実用性を持つのだ、と。

 心理的諸概念の系譜。私が求めているのは厳密さではなく、眺望がきくことÜbersichtlichkeitである。(RPPⅠ895 佐藤徹郎訳) 

cf.PPF202, RPPⅡ311

 
5.
そして、Spielすなわち「ゲームの一手」、ならびに「言語ゲームの要素」は、一回限りの現象に適用される概念ではないことを確認しておきたい。

 言語という現象を記述するには、何らかの慣習(Praxis)を記述せねばならず、いかなるものであれ、一度だけ生じるものごとの記述ではいけない。(RFMⅥ34)

かりに、生活が織物であるとするならば、その模様(たとえば偽装の)は常に完結しているわけではなく、様々な具合に形をくずす。にもかかわらずわれわれは、われわれの概念世界において、同じものが形を変えて常に繰り返し現れてくるのを見る。われわれの概念的な把握はそのようなものである。概念とは、実際、一回限りの用法に対応するものではないのだから。(Z568 菅豊彦訳)

人間の行動はどのように記述できるだろうか。ただ、色々な人間の行為について、それらが互いに入り組んだ仕方で群がっている様を描写することによってである。ある人が今為したことや、個々の行為ではなく、人間の行為の群れの全体が、すなわちわれわれが個々の行為をその下においてとらえる背景が、われわれの判断、概念、反応を決定するのである。(Z567 菅訳)