理解と感じ

1.

再び、前回の補足から。

ウィトゲンシュタインの中期の思想における、直接的経験を描出する言明Aussageと仮説Hypotheseの対立について。

「言明」と「仮説」の区別。仮説は言明ではなく、言明を構成する法則Gesetzである。

我々が観察するものは、常に、その法則を表わしているところの、各部分が相互につながり合っている構成物の「断面」にすぎない。

自然法則は検証されない、そして、反証されない。自然法則については我々は、真とも偽とも言い得ず、「ほんとらしい」と言えるのみである。(・・・)言明は真または偽であり、決して、ほんとらしい、のではない。(WVC, 黒崎宏訳p139)

感覚与件と直接経験の話をすることは、仮説的でない描出を求める、という意義を持つ。(PB 226 奥雅博訳)

 中期の立場では、われわれの用いる文の大部分は「仮説」である。

もし私が或る茶色がかった卵を発見し、「この卵はひばりが生んだものだ。」と言えば、この言明は検証<可能>ではない。むしろ私は、卵を生む鳥について仮説を立てる。(WVC, 黒崎宏訳p141)

ウィトゲンシュタインは、他の遺稿では、「言明」を、ここで言われたような意味に限定して用いようとはしていないことに注意する

 

 2.

「 理解は心的出来事seelische Vorgangではない」という主張について。

この文章は、強調の置き方によって、2通りの読み方ができよう。

①理解は心的出来事ではない

②理解は心的出来事ではない

 

②の方が、よりラディカルな主張であることは明らかであるが、この読みを支持するようなウィトゲンシュタインの言葉は次のものばかりではない。

 

理解にとって特徴的な出来事(心的な出来事をも含めて)が存在するかどうかという意味では、理解は心的出来事ではないのだ。

(それに対し、痛覚の増減、あるメロディーが、文章が聞こえることは、心的出来事である)(PI 154)

たとえば、「理解する」に類縁をもつ、「意味する」については、次のように言われている。

 意味する(meinen)ことは、語に付随する出来事Vorgangではない。なぜなら、いかなる出来事も、意味することの持つ帰結を持ち得ないだろうから。(PPF291)

これに関する、 以前に、何度か触れた議論を、「理解する」に応用してみることも可能であろうが、正確に論を展開するのは骨が折れることもあり、今は立ち入らない。

 

 ここでは、①について、考えてみたい。

「理解はそもそも出来事ではない」という「より強い」主張で済ますなら、「理解は心的な(あるいは、内的な)出来事である」という「像」がわれわれに執拗に迫ってくる、その事情について、明らかにすることはできないだろうから。

 

 ※「理解する」は、類縁の心理的概念の一例として取り上げられるのであって、「理解する」を解明することがここでの目的ではない。

 

3.

「理解は心的出来事である」という観念に対し、その「心的」というエレメントに的を絞った批判も、ウィトゲンシュタインは残している。

自分の場合には理解することが一つの内的出来事innerer Vorgangである、と報告したひとに対して、われわれはいったいどう抗弁するのであろうか。-自分の場合にはチェスをすることができるということが一つの内的な出来事である、と言ったひとに対して、われわれはどう抗弁するのであろうか。-かれにチェスができるかどうか、われわれが知りたいと思っているときには、彼の内部で起こっていることなど、われわれに全く興味がないのだ、と。-そして、もしかれがいまこれに答えて、それこそまさにわれわれの関心事なのだーすなわち自分にチェスができるかどうかということなのだ、と言うとすれば、-そのとき、われわれは、かれの能力をわれわれに証明してくれるような基準、そして他方では<内的な状態>ということの基準、に対してかれの注意を喚起しなくてはならないであろう。
たとえ誰かが特定の何かを感じているときだけ、またそのあいだだけ、一定の能力があるのだとしても、その感じGefühlが能力なのではなかろう。(PPF36、藤本隆志訳 )

ここで、考え合わせるべきことをいくつかメモしておきたい。

 

①「随伴する感じ」と「分離できない感じ」の区別

「理解」を「内的出来事」として解しようとする傾向。その例として上の断章で挙げられているのは、ここでも、感じ(あるいは感覚)への類比 である。

ところで、「意図する」という心理的概念を感覚に類比することを批判する際に、ウィトゲンシュタインはこのように書いている。

批判される相手の主張は、

「一瞬の間わたくしは・・・しようと思った。」すなわち、わたくしは一定の感じGefühl、内的な体験を持ったのであり、そのことを思い出しているのである。・・・(PI 645, 藤本訳 )

これに対して、次のように揶揄している。

・・・だが、わたくしが(レンズを一定に調節して)一つの感覚Empfindungを思い出した、と仮定してみよ。どうしたらわたくしは、これこそ自分の「意図」と呼んでいるものである、と言ってよいのか。(たとえば)一定のむずがゆさが、わたくしのどの意図にもつきまとっていたかもしれないのである。(PI  646、藤本訳 )

この場合、例に出された「むずがゆさ」と「意図」は、あきらかに概念的に無関係であり、同じ時間内に共起した場合、それは互いに「随伴した」という言葉で表すのがふさわしい。

しかしながら、「理解に、ある感覚が伴っている」と主張する人は、概念的に無関係な感覚が共起している場合とは異なったことが言いたいのではないか。

 

例えば、「知っている」に関して、次のような持続的感じと、その感じについての語りを想像することができるだろう。

人が、ある対象を熟知しているという、持続的な感覚Gefühlを感じていると私が言うような場合もまた想像しうるのではないか。ある人が、自分が長い間留守にしていた部屋の中を歩き回って、すべての古い品物のもたらす熟知の感じを楽しんでいる場合を考えてみよ。ここでは人は熟知の感覚について語りうるのではないか?それはなぜか?-私はこの感覚を自分のうちに認めるのか?ここで感覚について語ることが意味をもつと私が思うのは、その理由によるのか?(RPPⅠ123 佐藤徹郎訳)

ここで想定された人は、「熟知」自体のもつ「感じ」、それらに密接に結びついて離れないような「感じ」について語ろうとするのである。「理解のもつ感じ」について語ろうとする人も、それに似たことを言おうとしているのかもしれない。

そのような「感じ」は、当のものに「随伴する」のではない。

それは一つの語が持つ固有の「語感」、「物から分離できない雰囲気」、のようなものだ。

もしもという感じWenn-Gefühlは、「もしも」という語に随伴している感じなのではない。(PPF43 藤本隆志訳)

このような種類の「感じ」について、ウィトゲンシュタインは、その存在性格と、「発生の事情」を問題にしようとする。

もしもという感じは、一つの楽節がわれわれに与えるような特殊な<感じGefühl>と比較されなくてはならないであろう。(・・・)
しかし、このような感じを楽節から分離することができるか。だが、それにもかかわらず、その感じは楽節そのものではない。というのは、あるひとはその感じをもたずに楽節を聞くことができるからである。
この点で、その感じは楽節の演奏される<表情>に似ているのか?(PPF44~46、藤本隆志訳)

 

物から分離できない雰囲気、―それはそれゆえ雰囲気ではない。

互いに密接に結びついており、結びつけられたものは、互いに適合しあうように見える。しかし、どうしてそのように見えるのか。どのようにして適合するように見えることが立ち現われてくるのか。(PPF50 藤本訳)

 

例えば、なぜ、上述のような「熟知」の感じについて語る人は少ないのか?

それに対し、なぜ、「もしもという感じ」、いわゆる語感については、人はその存在を自明視し、多くを語ろうとするのか?

もしもという感じを、意味に対応して存在するのが当たり前のもの、とみなすなら、その心理学的な重要性は誤って評価されているのだ;むしろ、そのような感じは、違ったコンテクストの中で観察されなければならない。つまり、その感じが登場してくる、特定の環境Umständeというコンテクストの中で。(PPF41)

想起は感覚ではないが、「昔、昔に」という感じについては語り得る、という『探求Ⅱ』xⅲ節での主張もあわせて考察して見ること。

この「分離できない感じ」の問題は、ウィトゲンシュタインの「心理学の哲学」において、さまざまな領野に根を分岐して張らせている、主要テーマの一つなのである。

(続く)