感覚への類比

1.
「我々を引きずってゆく抵抗しがたい類比によって、我々は困惑のなかに引き込まれるのだと言えよう。(BBB p108)」ウィトゲンシュタインは哲学的困難の源泉について、そう語っていた。
これまで見てきた、心理概念の中の差異の指摘も、「抵抗しがたい類比」に抗するために為されていると言えよう。
では、心理学の哲学の領野において、「われわれをひきずってゆく抵抗しがたい類比」とは、何であろうか?

重要なものとして、心理的概念を、ある種の「感覚Empfindung」ないし「感じGefühl」に類比的なものとして捉えようとする傾向が挙げられるだろう。
<真の持続>の典型的例が、感官感覚Sinnesempfindungであったことを思い出そう。(cf.RPPⅡ63)感覚への類比は、往々にして「持続への類比」を伴う。

もちろん、この類比への傾向が問題のすべてではない。
また、これから確認してゆくように、この「感覚」「感じ」という概念も多くの差異を孕んでおり、一様ではない。

とりあえず、次のような断章を見てみよう。

 わたしは次のように問うことができよう:わたしは対象の空間性、奥行き(たとえば戸棚の)を、見ている間常に意識しているか?わたしはそれをいわば、つねに感じているfühlenのか?-だが、この問いを3人称に転換して見よ-われわれは他人について、どのような時に、彼はそれを常に意識していると言うだろうか?また、どのような時にその逆を言うのか?ーもちろん、彼に尋ねて見ることはできるーだが、彼はそのような問いに答える仕方をどのようにして学ぶのか?ー彼は「絶え間なく痛みを感じる」ことが何を意味するか、知っている。しかし、この場面では、(わたしをも混乱させるように)それはかれを混乱させるのみである。(PPF241)

愛は感覚Gefühlではない。愛は本物かどうか試されるが、痛みは試されない。(RPPⅠ959 佐藤徹郎訳 cf.Z504)

憂鬱は身体的感覚Körpergefühlではない。(RPPⅠ135 佐藤訳)

ここで、ひとは意図を感じGefühlと呼びたくなる誘惑を感ずるであろう。その感じは、ある種の硬さ、変更できない決意の感じなのである。(PI588)

だが、わたしが(・・・)ひとつの感覚Empfindungを思い出した、と仮定してみよ。これこそ自分が「意図」と呼んでいるものである、と私はどのようにして言えるのか。(たとえば)一定のむずがゆさが、わたしのどの意図にもつきまとっていることも可能であろう。(PI646)

・・・また意図Intentionは、私がすべてをそこへ還元したいと思っている、すなわち私がいわばすべての責任を押し付けようとしているようなある種の感覚Empfindungではない。(なぜなら、意図はおよそ感覚ではないからである。)(RPPⅡ176 野家啓一訳)

確信、信念について、ひとは時折、こういいたくなる、それは、思考の持つ調子である、と;そして、それらが語りの調子の中にに表現されることは事実である。しかし、それらを、われわれが語り、考える際の「感じ」Gefühlとして考えてはならない!(PPF339)

これらの断章にはいずれも感覚(Empfindung,Gefühl)への類比に対する批判が含まれている。

 上のの引用はほんの一部の例に過ぎず、同様の批判は、ウィトゲンシュタインのテクストの中のいたるところに出現する。

 われわれは、哲学しているとき、いかなる感じGefühlもないところで感じを実体化したくなる。それらの感じはわれわれの思考を説明するのに役立つ。(PI598 藤本隆志訳)

 
※今まで、「感覚Empfindung」ないし「感じGefühl」への類比 と言ってきた。この2つの概念の差異と類似については気になるところだが、ウィトゲンシュタイン自身が、どこまで意識して、この2つを扱おうとしているかは、今のところ良く分からない。
日本語の日常的な会話では、「感覚」と「感じ」が特に区別にこだわらず使われている場合も多いように思われる。そのせいもあってか、邦訳において、両者とも区別されずに「感覚」と訳されている場合があることには注意しておきたい。
(ドイツ語におけるEmpfindungの広範な意味、英訳する際の苦労については、Philosiphical Investigation 4th editionの序文で触れられている。)
ただし、ドイツ語および日本語における2つの概念の違い、とくに細かな差異についてはここでは立ち入らず、しばらくはそれぞれへの類比を一まとめにして扱っておく。