「説明」の周辺(13):2つの " expression "

1.

 ここまで、ウィトゲンシュタインが美学的対象の「表情」「身振り」といわれるものについて語っていること、それらを「表情”expression, Ausdruck”」という語で指示していること、を見てきた。

彼ににおいて顕著なのは、このような「表情expression」を美学的対象としてのみ捉えるのではなく、(美学的対象への反応としての)主体の側の表現行為としても 捉える視点である。美学的対象の「表情expression」と 主体の「表現expression」はあたかも表裏一体のものとして捉えられている。だが、それはどういう意味でだろうか?

 

前々回の引用で、子供が食べ物に対して言う「おいしい!(good)」が、顔の表情や身振りの代理として教えられる、と言われていた(LCA, p2)。食べ物のおいしさは、まず顔の表情や身振りで表現expressされる。

食べ物から音楽へ目を移してみよう。音楽がもつ表情について、われわれはよく、言葉では記述しがたいと感じる。

 記述することができないという問題に結びついている論点の内、最も興味深いものの一つは、楽曲のバースや小節が与える印象が記述できない[ということ]である。・・・

非常に多くの人が「私にはある身振りをすることができるが、それだけなのだ」と感じている。・・・

だが記述の観念の内に誤りがある、と私には思われる。私は 以前、ある人たち、とりわけ自分自身に対して、音楽における情感emotionの表現はある種の身振りである、と述べた。(LCA, p37 )

身振りで表された印象は、言葉によって正規に表現されるべきだと、多くの人が感じるかもしれない。

しかし、ウィトゲンシュタインは、それとは反対に、その身振りを付随的な動作と考えず、むしろ表情の本来の「表現」である、とみなすことを勧める。

この場合、身振りこそが音楽の表情の「本来的」な表現であって、表情をほのめかすための間接的な手段ではないのだ。

2つの"expression"は、まずはこのような意味で「表裏一体」であると、言えるだろう。

 

ウィトゲンシュタインは、「意味」「感じ」「考える、願う等の心的行為」といった捉えがたい「心的な」対象 を考察する際に、その「表現」を同時に考察するよう勧めている。

そのことによって、私は、考える、希望する、願う、信じる、といった心的出来事が、考え、希望、願い、等を表現する過程から独立して「存在していなければならない」、と考える誘惑を取り除こうとしてきたのである。そして、次のような大まかなやり方を教えようとした:もし、思考、信念、知識、等の正体に悩むことがあれば、思考等の代わりに思考等の表現を置き換える。(BBB, p41-2)

 

われわれの問題を考える際、次のことが役に立つ。すなわち、ある趣味tasteを持つ、趣味が変わる、言ったことを意味する、等に特有な感じthe feeling or feelingsと、それらの状態や出来事に特有な顔の表情(身振りや声の調子)とを、同時に考察してみること。もし、感じと顔の表情とは比較できない、なぜなら感じは経験だけれど顔の表情の方はそうでないから、と言って反論するのであれば、身振りや顔の表情と堅く結びついた筋感覚的、あるいは運動感覚的、触覚的な感じについて考えてみることだ。(BBB, p144)

※「身振りや顔の表情と堅く結びついた筋感覚的、あるいは運動感覚的、触覚的な感じ」は、まさにその身振りや顔の表情を介さないと記述できない。

「心的現象」の正体にわれわれが悩まされる場面において、「心的現象」とその「表現」とを同列のものとして見る、という方法。

その典型例を、「期待」の考察の場合に見ることができよう(cf. PGⅠ§92,101-3)。

 

さらに、アスペクト の閃き についても、その経験に声の抑揚や身振りが本質的に属しているというふうに考えよ、と言う。

b) a)と同様で、ただ、その人の顔が私にすぐにはわからない。少しして、誰だか「私にわかってくる」。私は「ああ、君か」と言うが、a)の場合とは全く違った抑揚で言う。(声の調子、抑揚や身振りを、本質的でない随伴物とか単なるコミュニケーションの手段とは考えず、われわれの経験の本質的な部分であると考えよ)(BBB p182)

  

「表情」と身振りの場合も、これらに類似した方法が取られているといえよう。

これらの方法は、ウィトゲンシュタインにとって、治療的な意義を持つ。

 

とはいえ、音楽が持つ「表情」にしても、音楽がわれわれに与える「感じ」にしても、われわれのおこなう「表現」とは区別される概念であるはずだ。

(「期待」「アスペクトの閃き」についても同様。)

では、なぜ、ウィトゲンシュタインは、「治療」のためであるにせよ、「表情」と「表現」を同列におこうとするのか?

 

2.

"expression"の2面性については、別の観点から眺めることもできよう。

最初に述べたような視点はウィトゲンシュタインだけのものではない。

類似した思考を展開したことで、より広く知られているのはメルロ=ポンティである。メルロ=ポンティは、主体と対象とのインターフェイスとして「表情」、さらには「感覚」を捉えていた。そして、身体を介した、主体と対象との交互作用(「交換」)という視点を強調した。その背後にある要点は、行為と認知の本質的なつながりである。

いいかえれば、われわれは「実践的な意味の糸をまわりに張りめぐらし、物のうえに意味を直接に読みとっている」。そしてそのために、われわれの身のまわりは、いつもあるなれ親しまれた表情をもってあらわれていることにもなるのだ。

メルロ=ポンティはここで、この表情をつうじての対象や周囲世界の知覚を perception physionomique(相貌的知覚)というふうに、カッシーラーの概念を引き継いで用いている。

 

メルロ=ポンティは認識心理学の分析を引きながら、つぎのように指摘する。色ですらたとえば赤と黄は外転、青と緑は内転というふうに「運動的相貌(physionomie motrice)」をもっている。こうした外転や内転は「実存のリズム」なのであって、ひとはそれを感覚のうちに見いだす。色の性質は、眼のまえにひろがる客観的な光景としてでなく、まずはそれをめがける行動の「型」によって認識されうるものだというのである。意識(=対自)か対象(=即自)かという二者択一が問題なのではなくて、感覚を「共存」ないしは「交換(échange)」としてとらえることが肝要だというのである。

(いずれも鷲田清一メルロ=ポンティ 可逆性』第2章より)

 

※慣れ親しんだ感じ(熟知性)は、ウィトゲンシュタインの重要な考察テーマでもあったこと(cf. PI 598, BBBp127,167, 180~)、Physiognomieという言葉をウィトゲンシュタインもしばしば使っている(PI 235,568, PPF238)ことを考えると、2人の考察の比較はより興味深く感じられるだろう。

そのような視点によって、メルロ=ポンティの著作はミラーニューロンの機能を発見した脳神経学者たちに大きな影響を与えた。彼らは、その思考を、彼らの発見内容を予見した洞察として捉えたのである。(cf. マルコ・イアコボーニ『ミラーニューロンの発見』)

同様に、ウィトゲンシュタインにおける"expression"の2面性を、行為と認知の本質的連関の表現として解釈することも可能かもしれない。

 

深い関連性を持つテーマとして、「模倣」について軽く見ておきたい。

前回、尊大な人物を表現するのに、その人物の顔の表情をしてみせる例を挙げた。表情や姿勢の「模倣」という現象では、あたかも対象の"expression"と主体の"expression"が「合致」するかのようである。

 メルロ=ポンティと同様に、ウィトゲンシュタインは、模倣という現象に大きな興味を持っていた。「模倣」は、自分の体性感覚の認知、記述、伝達という、彼がしばしば取り上げた問題とも絡み合っている(cf. LCA p39)。

彼は、表情の認知自体が表情の模倣行為であるとする文章も残している。

「微笑のなかに好意を読み込む hineinlesen」とはどういうことか。

おそらくそれは、微笑している顔つきGesicht に、ある一定の仕方で対応づけられる顔つきを私がする、ということである。私は他人の顔つきに対し、いわばそのあれこれの特徴を誇張するような仕方で、私の顔つきをあてがうのである。(PGⅠ129、山本信訳)

アスペクトの中にある相貌Physiognomieが現存していたが、やがて消え去る。それはほとんど、ある顔つきGesichtがそこにあり、それを私は最初模倣し、ついで模倣することなしに受け入れる、 ようなことである。—さて、実際これで、説明として十分ではなかろうか?—いや、やりすぎではないのか?(PPF238, cf. RPPⅡ519)

このような説明は後のミラーニューロン説を思い出させる。とはいえ、似たような考察を残した先人は複数存在する。例えば、このような捉え方の基礎として、現在で言う「表情フィードバック仮説 facial feedback  hypothesis」が想定されるだろう。この仮説の源泉の一人とされるウィリアム・ジェイムズの著書を、ウィトゲンシュタインはよく読んでいた。彼もまた、ジェイムズやケーラーなどの心理学的著作から大きな影響と刺激を受けた哲学者の一人だった。

 

3.

以上のように、現代の脳神経科学者たちがメルロ=ポンティを再評価したような視点で、ウィトゲンシュタインの「心理学の哲学」を読み直すことも可能だろうが、それはここでの興味ではない。

 さしあたって、2つのことに言及しておく必要があるだろう。

一つは、先ほど提示した問いに関すること、

もう一つは、表情の「一瞥性」について。