「状態」というモデル

 

1.

前回の補足から。

『茶色本』で、「できる」が用いられる様々な言語ゲームを記述・考察した後、ウィトゲンシュタインは 次のようにまとめている。

 「できるcan」「する能力があるto be able to」といった可能性の表現が用いられている個々のケースが、家族的類似で結びついて広大な網をなしていることを見てきた。いくつかの特性が、個々のケースの中に、異なった組み合わせで現れている、と言えるだろう。それらの特性には、次のものがある:

例えば、推測というエレメント(あるものが、未来に、ある特定の仕方で振舞うであろう、という推測);

あるいは、あるものの状態の記述(その状態は、未来に ある特定の仕方で振舞うための条件である);

また、ある人やものがパスしたテストの記述。―

他方、さまざまな理由によって、われわれには、あることが可能であるとか、ある人が何かをできるということを、その人、ものが ある特定の状態にあること と見なす傾向がある。粗い言い方になるが、いわば、われわれは「Aが、あることをできる状態にある」という表現形式の使用に強い誘惑を覚える。またはこういってもよいだろう。われわれは、あるものがある仕方で振舞うことができる、ということを言うのに、あるものが特定の状態にある というメタファーを用いようとする強い傾向がある。このような表現形式、メタファーは、次のような言い回しに現れている:「彼は・・・ができる He is capable of・・・.」「彼は大きな数の掛け算を暗算で出来るHe is able to multiply large numbers in his head.」「彼はチェスができるHe can play chess.」:これらの文で、動詞は現在時制で使われている。それによって、これらの表現が、表明される時点に成り立っている状態を記述するものであることが示唆される。

数学の問題を解く能力や音楽作品を楽しむ能力等を、こころの特定の状態と呼ぶことも、同じ傾向の現れである。われわれは、この表現で、「意識された心理現象conscious mental phenomena」を意味しているのではない。むしろ、ここで言う こころの状態 とは、仮構されたメカニズムhypothetical mechanismの状態、つまり意識された心理現象を説明するための心のモデルの状態なのである。(無意識ないし潜在意識の心的状態といったものは、心のモデルの徴表である)(BBB,p117)

われわれは、「・・・できる」ことを「ある特定の状態にある」という表現形式で表そうとする強い傾向を持つ。そのような「状態」について、ここでは、「仮構されたメカニズム」だと言われている。

その「メカニズム」に対立させられているのは「意識された心理現象」である。前者が「仮構された」ものであるのに対し、後者はそうではない、ということだろう。

そのような規定は、中期における、直接的経験を描出する言明Aussage(「現象学的言語」)と仮説Hypotheseの対立(cf.WVC,Ⅱ, HypothesenⅠ, PB 1, 225~)を思い出させる。『茶色本』の時期、なおも中期の思想の残滓が、心理的概念の扱いにおいて残存していた、と言うべきだろうか?

「仮構された」「仮構されていない」という区別は、言語ゲーム上でどのような違いをもたらすのか?そもそもその区別は自明なのか?

そのような「メカニズム」の存在を想定することなしに、かの「状態」を用いた言語ゲームを行うことはできないのか?あるいは、そのような言語ゲームを行うために、われわれはどのように、あるいはどの程度、「メカニズム」の存在に「コミット」しなければならないのか?

このように疑問が次々と湧いてくるが、答えることは容易ではない。

 

現時点で言えることは、前回述べたように、ウィトゲンシュタインは「心の状態」を用いた種々の言語ゲームの明晰化を求める(例えばPI 573)が、それらを排斥しようとはしていない、ということである。

 

2.

それを、「理解は、心的出来事(過程)seelische Vorgangである」という観念に対するウィトゲンシュタインの扱いに対比させてみよう。そこでの彼の態度は、明確に否定的である。

われわれはいまや、かの一層荒っぽい、したがってわれわれの眼にもはっきりしている諸々の随伴事象の背後に隠れていると思われる理解という心的な出来事を把握しようとしている。しかし、それはうまくいかない。(・・・)かりにわたくしが理解のあらゆる場合に生じている何事かを発見したと仮定しても、ーなぜそのことが理解ということでなくてはならないのだろうか。(PI 153 藤本隆志訳)

 

だが一度、理解を<心的な出来事>とは考えないようにしてみよ!-なぜなら、それこそが君を混乱させている言い回しなのだから。(・・・)

理解にとって特徴的な出来事(心的な出来事をも含めて)が存在するかどうかという意味では、理解は心的出来事ではないのだ。

(それに対し、痛覚の増減、あるメロディーが、文章が聞こえることは、心的出来事である)(PI 154, Z446)

 

「ある人間が突然理解するとき、何が起こっているのか。」-この問いは、立てかたがわるい。これが「突然理解する」という表現の意味を問うているのなら、その答えはわれわれがそのように呼ぶ出来事を直示することではない。(PI 321 藤本訳)

これらの断章、その周辺の断章の読解も決して容易ではないが、とりあえず、次のように考えてみたい。

「理解」を「心的出来事」として把握することは、われわれの日常的言語ゲームにおける「カテゴリー・ミステイク」であり、哲学的混乱をもたらす。

「できる」を「ある状態にある」で表現することは、(『茶色本』BBB, p117までに描出された)「できる」を用いるプリミティブな言語ゲームの例から見れば、ある種の「メタファー」、新たな言語ゲームの創出である。しかしそれは、今では、われわれの日常に深く根ざした、抜き去ることのできない、きわめて重要な言語ゲームである。

3.

 「状態」に同化することがカテゴリー・ミステイクになる心理概念の例としては、おそらく「思考」が挙げられよう。

期待する、信念をもつ、希望する、等は、状態と呼ぶことができる。

信念、願望、恐れ、希望、愛着、人はこれらを人間の状態と呼ぶことができる。われわれがこの人に対して何らかの態度をとる際には、こうした状態を計算に入れ、その人の状態からその人の反応を推理することができる。(RPPⅠ832 佐藤徹郎訳)

期待は、文法的には、一つの状態である:ある意見をもつこと、あることを希望すること、あることを知っていること、あることができること、のように。(PI 572)

しかし、「思考」はこれら「状態」とは異なったカテゴリーに属する。

命題、別の言い方では思想Gedankeは、信念、希望、期待等の<表現>となりえる。しかし、信じることGlaubenは考えることDenkenではない。(文法的に考えて。) 信念、期待、希望といった概念は、お互いに、思考という概念に対するほど異質ではない。(PI 574)

「思考」という心理的概念の特異性については改めて考察されるべきだが、ここでも「持続」がカギとなるだろう。

だが、なぜ私は、かの思考Denkenは体験Erlebnisではない、と言いたくなるのか。 - 人は<持続Dauer>について考えることができる。もし私が一語を発する代わりに一文全体を述べたとすれば、発話の中のある時点を思考の始まった時点だと言うこともできなければ、思考が生起した瞬間だと言うこともできないだろう。また、その文の初めと終わりを思考の始めと終りと呼ぶとすれば、思考の体験はその間ずっと一様であったと言うべきなのか否か、あるいは、思考の体験は文の発話それ自身に類似した過程であると言うべきなのか否か、それは明らかではない。
(RPPⅡ257 野家啓一訳 cf.Z96)

 一様な持続という性質を持たない、という点では、意図(志向)Intentionも思考と共通する。

 私は先に、意図Intentionは内容を持たない、と言った。だが、意図の言語表現の説明を、意図の内容と呼ぶことができる。しかし、それは一様な状態でありこの時点からあの時点まで持続する、とは言えないし、最初の語の始まりから最後の語の終わりまで続く、とも言えない。(RPPⅡ274)