治療の手法

1.
たとえば、「理解」が、自分にとっては「内的体験」であり、「感覚」「感じ」のようなものだと主張する人に対して、
「理解」と「感覚」「感じ」との違いを示すことは、ウィトゲンシュタインの言う「哲学的治療」に役立つ。 cf.RPPⅠ302,PPF36

だが、前回見たように、次のような説明はその役割を果たさない。

 「痛みは意識状態であるが、理解はそうではない。」-「ともかく、私は理解を感じ(fühle)ない。」-だがこの説明は何の役目も果たしていない。何らかの意味で感じられるものが意識状態なのだ、と言うこともまた説明にはならないだろう。それは、意識状態=感覚Gefühlと言っているにすぎない。(ある語を別の語で置き換えただけにすぎないだろう。)(RPPⅡ48 野家啓一訳 cf.Z84)

 理解と感覚のカテゴリー的差異を説明するのに、「ともかく、私は理解を感じない。」という発言を主な根拠とするわけにはいかない。

 

そのような差異を提示する際は注意しなければならない。

今私が、たとえば想起の体験と痛みの体験とはその種類が異なると言うとすると、それは誤解をまねく表現である。なぜなら、「異なる種類の体験」という表現から、人は痛みとくすぐったさと慣れの感覚のあいだの差異のようなものを思い浮かべるかもしれないからである。これに対して、われわれが問題にしている差異は、むしろ1と√-1という数の間の差異と比較しうるものである。(RPPⅠ108 佐藤徹郎訳)cf.RPPⅠ1027, PPF165

 

やはり、ここでも文法的差異は使用(適用)に示されるだろう。

 しかしこの膨大な相違は、(私は常にこう言いたいのだが)これら二つの概念がわれわれの言語ゲームの中に全く別の仕方で埋め込まれている(eingebettet)ことに基づいている。そして、私が注意を促した相違は、単にこの一貫して見られる差異を指摘するためにほかならなかった。(RPPⅡ54 野家訳)

 使用を示すことが、すなわち、この「埋め込まれ方」の違いを示すであろう。

2.

 「感覚への類比」に対する批判を通して心理的概念の多様性を明らかにし、諸概念同士の類似と差異による連関を示すこと。

「心理学の哲学」におけるウィトゲンシュタインの手法を、試みに列挙しておこう。

 

A.「感覚」と他の心理的概念との差異を示す。

B.広義の「感覚」カテゴリーの内部に差異を見出す。

その1.ある種の感じGefühlと 感官感覚Sinnesempfindung との違いの指摘

その2.「感官感覚」内部の差異の指摘。体性感覚と視覚等との差異、視覚、聴覚と圧力感覚、味覚等との差異、など。

その3.傾性な「見る」、「気づく」など:「感覚」「知覚」に属している概念にも「真の持続」のみではない時間様態をとるものがあることの指摘。

C.拡張された感覚概念の考察:技術との結びつきを指摘し、元の概念からの変容を示す。

 

 以下、それぞれの例をあげてみよう。

 A.

 楽しさとは感覚Empfindungなのかどうかと問う人は、おそらく理由と原因とを区別していないのだろう。なぜなら、もしそれを区別していたとしたら、あるものを楽しむとは、そのものが原因となってわれわれのうちにある感覚を惹き起こすことではない、ということに想到していたはずである。(RPPⅠ800 佐藤訳 cf.Z507)

B-1

もしもという感じWenn-Gefühlは、「もしもWenn」という語に随伴している感じGefühlなのではない。
もしもという感じは、一つの楽節がわれわれに与えるような特殊な<感じGefühl>と比較されなくてはならないであろう。(・・・)
しかし、このような感じを楽節から分離することができるか。だが、それにもかかわらず、その感じは楽節そのものではない。というのは、あるひとはその感じをもたずに楽節を聞くことができるからである。
この点で、その感じは楽節の演奏される<表情>に似ているのか?(PPF43~46、藤本隆志訳)

B-2

すべての感官感覚には程度があり、また質的な混和が可能である。程度:感じられない-耐えられない。。
この意味で、位置感覚、あるいは運動感覚は存在しない。
身体における感覚の場所:見ることと聞くこととは圧力感覚、温度感覚、味覚、痛覚から区別される。(RPPⅡ63)

私は手に痛みを感じる。-では、眼に色を感じるだろうか?(RPPⅠ803 佐藤訳)

 B-3

しかし、人はこう言うこともできるのではないだろうか。「私は、それを一度もこれ以外のものとして見ていない場合には、常にこれとして見ていることになる。」(LPPⅠ671 古田徹也訳)
気づくことと見ること。人は「私は5分間、それに気づいた」とは言わない。(RPP Ⅱ443)

C.

 図形のある種の応用がすらすらとできる者についてのみ、かれはいまそれをこう、いまはこう見ている、とひとは言うであろう。
こうした体験の根底は、ある技術に通暁しているということなのである。

しかし、このことが、あるひとがかくかくの体験をしているということの論理的条件でなくてはならないというのは、何と奇妙なことだろう!それでも、あなたは、かくかくのことができるひとだけが<歯痛を感じている>のだ、などとは言わない。-そのことから、われわれがここで同じ体験概念にかかわり合っていることなどありえない、ということが導かれる。それは関係があるとしても、別の概念なのである。(PPF222-223、藤本訳)