数学から歩み出る、数学へ引き返す

1.
ここまでの歩みを振り返る。

元々の課題は、経験的命題の使用と異なる、文法的命題使用の特徴について解明することであった。
そこで、『数学の基礎』に繰り返し登場する、ある命題使用の形式に着目した。

使用される命題は、ある操作が特定の規則に従って行われた場合、特定の結果に到達することを述べる種類のものである。

そこで「個々の操作が、当の規則に従う操作であるか否か」を、操作の結果を規準として判断する行為が、ここで問題となる命題使用の形式である。

その際、操作が規則に従った結果について述べる命題は、判断における範例の役割、すなわち文法的命題の役割を果たし、事実を記述する命題のように現実の結果によって訂正されることを免れる。(操作と結果

(結果が規準となるという構造は、「意味する」「できる」といった言葉の使用の際にも見られた。規則遵守と関連する行為

この種類の命題使用は、操作と結果との間に、論理的な結びつきを打ち立てる。

 

遡って、『論考』においては、論理学での証明という「操作」に関して、

「論理学においては過程と結果は同等である。(TLP 6.1261 野矢茂樹訳)」と言われていた。

その後、中期の数学論においても、ウィトゲンシュタインが同様の観点をさらに展開したことを指摘した。

この操作ないし過程と結果との論理的結びつきは、数学的対象とその性質との結びつきに類比され、さらには『論考』での、対象と内的性質との結びつきに類比されることを確認した。(『論考』の射程

 

この観点が『数学の基礎』の時期にもある面で継承されたことは、上述の命題使用の形式がモチーフとして繰り返し取り上げられたことから理解される。そのような命題使用の形式は、「過程と結果が同等」であるような論理・数学の世界を成り立たせる、われわれの行動様式(生の形式)である、と言えるかもしれない。

 

しかし、素朴な疑問を重ねることで明らかになったのは、そのような観点が、数学という営みの一面を捉えているに過ぎない、ということであった。(論理的に不可能なものの記述

それは、現実に、「計算する」「規則に従う」等の言葉の使用が「揺らぎ」を見せていることで確認された(計算の揺らぎ)。あるいは「計算間違い」という概念が存在することによっても(計算することと計算しないことの間)。

 

2.

 ここで重要になるのは、数学に対する、より包括的な観点である。

『数学の基礎講義』で、ウィトゲンシュタインは次のように言っていた。

数学へ入り込めば、手段the meansと結果は同じものとなる。逆に、手段と結果を区別するなら、それは数学でなくなる。(WLFM p53)

われわれは、ある場面では手段と結果を同等とみなし、別の場面ではそれらを区別する。必要なのはそのような行動を現実に即して捉えることである。

 しかし、なぜ私は列の性質が展開され、示されると感ずるのか。-私は、示されるものを交互にabwechselnd、その列に本質的なもの、非本質的なものとみなすからである。あるいは、交互に外的、内的なものとしてこれらの性質について考えるからである。私は、交互にあるものを自明のものと受け入れ、注目に値するものと考えるからである。(RFMⅠ 85 中村秀吉・藤田晋吾訳)

 ここで言われている「交互に・・・し、・・・する」というあり方を別の言葉で表すなら、「数学から歩み出て、再び数学へ引き返す(RFMⅤ 4)」。

数学という営みには、このような往還が含まれている。

ここで、議論の出発点が

全く同様の外見を持つ数学的命題と非数学的命題の、使用における本質的な違いを示すこと(WLFM, p111)

であったことを思い出そう。

つまり、文法的命題と経験的命題は、まったく同じ姿を取り得ると言われているのである。そのことを再考するときである。