説明と imperfective aspect

1.

 前々回、「説明の半過去 imparfait d'explication」という概念を紹介した。

その「説明」とはそもそも何か?という問いを通して、「関連づけ」という概念に注目した。

さらに、前回、「関連づけ」と半過去の使用とに本質的つながりを認めようとする説を紹介し、それによって説明可能となると言われる例文(16a,b)について見てきた。その説が半過去の使用の一つの条件としたのは「概念的つながり」の存在であった。

例文(16a,.b)は、「説明の半過去」の例にもなっていた。接続詞が使われていないことに注意。また、'avec plaisir'が現れる2つの文の許容度の違いに注意。

(16)a. Jean se mit en route dans sa vieille Fiat. Il attrapa une contravention. Il roulait {trop vite/⁕avec plaisir}.

ジャンは古いフィアットに乗り出発した。彼は交通違反の罰則を受けた。{スピードを出しすぎていたのだ/⁕気持よく運転していたのだ}。

b. Jean se mit en route dans sa vieille Fiat. Il attrapa une contravention. Il roulait pourtant avec plaisir.

ジャンは古いフィアットに乗り出発した。彼は交通違反の罰則を受けた。気持ちよく運転していたのだけれど

ただしかし、実際には、特別な「概念的つながり」の存在しないところでも、半過去は使用されることを確認した。

(17) A midi,quand je suis rentré, tu dormais encore.

正午に僕が戻ってきたら、君はまだ眠っていた。

接続詞 'quand' が使われていることに注意。

振り返って(16b)を見ると、文法上の接続詞ではないものの、pourtant「けれども」という副詞が使用されている。(16a)の最初の文('trop vite')は、理由を説明する形で、前の文と順接でつながっている。それに対し、(16b),(17)はともに、接続詞または副詞が「関連づけ」の枠組みを作ってくれている、そのように見ることができそうだ。

すなわち、文や節の間に元々意味上の連関(概念的つながり)が存在する(16a)ではもとより半過去が使用できるが、意味上の連関がそのままでは存在しない(16b)や(17)の場合、接続詞や副詞が関連の枠組みを作ってくれているので、やはり半過去が使用できる、と。

 

「概念的つながり」の存在が半過去の使用の条件である、と主張するのは、強すぎるように思われる。しかし、上で観察したことから、何らかの「関連づけ」の存在が半過去使用の条件となる、と言えないだろうか?

ここで問題となっているのは、再び、半過去の非自立性である。が、今はこれ以上立ち入らない。

 

(17)のような半過去の使用は、「背景の描出」と呼ばれることができるが、しかし、「背景の説明」と呼ばれることも可能だ。それはまた広い意味での「関連づけ」である、と言ってもよさそうだ。

この広い意味での「説明」「関連づけ」は、どのような性格を持っているのだろうか?

 

2.

これまで、フランス語の半過去を題材に問いを展開してきたが、ここでの関心はフランス語に止まらない。

むしろ、広く、imperfective aspectと説明との連関に向けられている。

 ここで詳しい解説はできないが、ごく簡単に英語と日本語の例を挙げておこう。

 

例えば、<行為解説の進行形>と呼ばれる、英語の現在進行形の用法を見てみよう。

a. When I said ‘the boss’ I was reffering to you.

b. When I said ‘the boss’ I reffered to you.

 「a. 私が’上司’と言ったとき、あなたのことを言っていたんですよ。

     b. 私が’上司’と言ったとき、あなたのことを言っのですよ。」

これらの発言はまさに「説明」と呼ぶべきものであるが、これに関して

Huddleston and Pullum, The Cambridge Grammar of the English Language は、

a.,b.どちらでも構わないが、進行形の方がよいとしている。

(溝口彰、『時間と言語を考える』4.6.より)

ここに、説明にimperfective aspectが選好される例のひとつがある。

 

あるいは、知人と会食中の「私は、今、論文を書いています」という発話を取り上げよう。

(cf. 叙想的テンス、叙想的アスペクト(2)

 この発言は、「現況の描写」と呼ぶよりも「現況の説明」と呼ぶ方がぴったりくるだろう(実際には食事中なのであるから)。(「私は、今、論文を書きます」は不適切な文となる。)

一方、「私は、論文を書きます」と言う場合。この発言は「意図の表明」と呼べるが、文脈によって、これも説明の機能を果たす。(例えば、「君はどうしてまだ大学にいるの?」という問いに対し返答する場合。)

このように、説明がすべてimperfective aspectを用いてなされるわけでは、決してない。

それでも、imperfective aspectと説明との間に何らかの「近しさ」が存在する、ように思われるのだ。

 

3.

さて、これまで、「叙想的アスペクト」として、それ自体としてはperfectiveな事象をimperfectiveに描出する例を取り上げた。

では、逆に、imperfectiveな事象をperfectiveに描出する例が見いだせないだろうか?

 

だが、そもそも「imperfectiveな事象」とは何だろうか?

それを単純に、一定の期間(あるいは永遠に)持続する事象と考えてよいのだろうか?

 

そのような考えからアスペクトに関する誤用がしばしば生じることが、フランス語や日本語の学習現場で観察されている。

例えば、ある日本語学習者の誤用例について、寺村秀夫は次のように述べる。

ところで、~シタと、~シテイタの使い分けは、日本人にとってははっきりした違いのように思われるが、多くの外国人にとって、意外にむずかしい点の一つである。たとえば次のような~テイタの使い方は外国人の作文によく見られるものである。

(71)・・・その夜、山ノ上旅館で泊っていた。翌日の朝、早く起きて、山にのぼった。

(・・・)

・・・この筆者の考えは、「泊った」というのは7,8時間の長さをもつ時間内に継続したことだから、~テイルという継続の形の過去形を使ったのだ、というのである。このことに、日本語のテンスとアスペクトが、客観的な事実が点か幅かというのでなくて、話し手がその事実をどう見るかに関わっているものだということが端的に現れている。・・・それぞれのできごとは、それ自体としては、「到着」「出発」のように瞬間的であったり、「登山」「宿泊(滞在)」のように持続的であったりするけれども、上の文脈から、読者は、それを点的なできごとの連鎖を報告するものだと受けとり、そうであるから、点を表す過去のテンスの形、~タでないとおかしいと感じるのである。ここで、作文のように、「泊っていた」とすると、読者の注意は、「そのあいだに何か起こったのか」という方向に向く。だから、たとえば、

(73) 山ノ上旅館ニ泊ッテイタ。夜中に地震ガアッテ、皆トビ起キタ。

というような文脈だと、~テイタという文脈は自然に受けとられる。

(寺村、『日本語のシンタクスと意味Ⅱ』p144)

perfective、imperfectiveは、事象そのものの性質から決定されるよりも、「話し手がその事実をどうみるか」から、あるいは叙述の性格(例えば「点的なできごとの連鎖の報告」)から 決まってくる。それにまず注意しよう。

 

 上の例文(73)で、「山ノ上旅館ニ泊ッテイタ」というimperfectiveな描出は、「地震があった」「皆がとび起きた」という事象の「背景の描出」であり、「背景の説明」になっている、と言えよう。

ただし、「山ノ上旅館ニ泊ッテイタ」という事象が「地震があった」ことの原因でも理由でもないことは明らかである。さらに、日常的な意味で、「皆がとび起きた」ことの原因や理由とは言えないことも確かである。

では、それが事象の説明となる根拠、すなわち、事象との「関連」はどこにあるのか?

「山ノ上旅館ニ泊ッテイタ」ことが、「地震があった」「皆がとび起きた」ことの 現実における条件となっていたこと、であろう。ここで言う「条件となる」こと の意味は、時間的にみて、諸事象と「同時」であったり「直前」であったりすることだ、と言えよう。

このような描出は、事象自体の性質に関する「説明」とは区別されるであろう。その意味で、「背景の説明」である、と言ったのである。

 

つまり、1.で問われた、この種の「説明」の特質は、「背景」という概念に関わる。

それが例えば事象間の時間的な関係に関わっていることは、上の例が示しているが、それに留まるかどうかは即断できない。

 

 4.

imperfective aspectと説明との関係を考察する際に無視することのできない書物に、ハラルト・ヴァインリヒ『時制論』がある。

ヴァインリヒは、フランス語の時制を論じた部分で、半過去を「背景の時制」、単純過去を「前景の時制」と特徴づけた。この書は、そこで導入された様々な概念とともに広範な影響を及ぼしたが、「背景ー前景」という対比はその内容の一部に過ぎない。

 

正直な話、この大冊を読みこなすのは筆者のような「素人」には荷が重い。英、フランス、ドイツ語のみならず、イタリア、スペイン、ラテン語まで登場することもその理由だが、なによりもその内容の幅の広さについてゆくのが大変なのである。

とはいえ、 議論のごく大枠のみでも確認しておく必要はある。

(続く)