「説明」の周辺(38):美学的説明のタイプ

1.

ウィトゲンシュタインの云う「美学的説明」は、例えば次のような困惑から始まる。

コーヒーの香りを記述してみよ!—なぜうまくゆかないのか?(PI 610、鬼界彰夫訳)

「これらの音は何か素晴らしいことを語っている、しかしそれが何か私にはわからない」と私は言いたいのだ。(同上)

記述できないという問題 に結びついている話題の内、最も興味深いものの一つは、楽曲のバースや小節が与える印象が記述できない[ということ]である。「私には何であるのかわからない・・・この転調・・・何なのだろう?」(LCA p37)

その困惑は次のようにして解消が図られる。

美学的な困惑を解決するために、われわれが現実に必要とするものは、ある種の比較ーある実例を一緒にまとめること、なのだ。(LCA,p29 )

美学のしていることは、しかるべき特徴に注意を引くこと、これらの特徴を示すためにいくつかのものを並べて置くことにほかならない。(WLC1932-35, p38, 野矢茂樹訳)

このような「比較」、注意を喚起して「並べて示すこと」が「美学的説明」である。

 

前回、それを、メタファー形式(型)を持つものとした。そして、「同一性や類似性という非因果的つながりを例示する」特徴を持つものとした、

しかし、最後に、「美学的説明」は①メタファー型に限定されるか ②同一性、類似性に限られるか、という疑問を提示しておいた。

この2点の疑問は結びついているのではないか?

 

2.

ウィトゲンシュタインが実際に挙げている、美学的な言明の例について見てみよう。

ここで、美的な事象についての会話で、次のような言葉が使われることが思い出される。「君はそれをこう見なくてはならない。それはこのように意図されているのだから。」「もし、それをそのように見るなら、どこに間違いがあるか、わかるだろう。」「これらの小節は、導入部として聴かなければならない」「この調として聴かなければならない」「それは、こう区切られなくてはならない」(そして、これらは、聞くこと、演奏すること、どちらにも関わってくる。)(PPF178)

 

私は、ある音楽的主題をくり返して、その都度テンポを遅くしながら演奏させる。最後に私は「いまちょうどいい。」とか「いまようやく行進曲だ」とか「いまようやく舞踏曲だ」とか言う。-この口調の中にアスペクトの閃きもまた表れ出ている。( PPF209 )

 

まず、「この調として聴かなければならない」「いまようやく行進曲だ」「いまようやく舞踏曲だ」という言明について考えよう。これらの言明は、ある音楽曲の演奏が、ある 楽曲の類 の一例となっていることを表している。その意味で、同一性や類似性の表現と言うよりも、カテゴリ的な包摂関係の表現と呼ぶのが適切であろう。それを シネクドキ形式(型)の説明と呼ぶことができよう。

 

さらに、「これらの小節は、導入部として聴かなければならない」「それは、こう区切られなくてはならない」に注目しよう。前者では、ある一節を全体の中の部分として位置付け、後者では、ある一節を、特定の分節からなる全体として捉える。すなわち、部分‐全体関係の表現になっている。これらを メトニミー形式(型)の説明、と呼ぼう。

 

これらに対し、「君はそれをこう見なくてはならない」「もし、そのように見るなら」は、敢えて言えば、メタファー型の説明に類比できるだろう。(ただし実際は、「こう」「そのように」の内容に依る。)

 

 ※「メタファー型」「シネクドキ型」「メトニミー型」という呼び名は、もちろん、レトリックにおける概念からの転用だが、原義とはさまざまな点で食い違いがあるかもしれない。しかし、今はその検討には立ち入らない。これらの呼び名は、あくまでも、当ブログにおける用法としてその範囲で扱う。

 

3.

さて、次の問題は、それぞれの形式の説明が、非因果的つながりの表現になっているかどうかである。

シネクドキ形式については、そうだと言えよう。

「ちょうちょう」の唄がハ長調であること、ある演奏が行進曲のテンポであることは、2つの事象の間の因果的つながりを表しているのではない。

 

では、メトニミー形式についてはどうか?

ここでは2つの見方が可能であろう。

芸術作品を、時間を越えたフォルムとして捉える場合、部分‐全体関係もまた超時間的、非因果的な関係だと言えるだろう。(「それは、こう区切られなくてはならない」)

 

それに対して、芸術作品を、現実の時間の中の存在として捉える場合、その部分と全体との関係は因果的なものと見なされるだろう。つまり、実際にこの部分が作られ、この部分が作られ・・・、これらが積み重なって、全体の作品ができた、という関係。

 

ここで、ウィトゲンシュタインが、「メカニズム」を、理由(前提)ー帰結関係および原因ー結果関係のモデルとしたこと、すなわち二重の類比を行ったことが想起される。

さらに、そこから、原因ー結果関係の、理由ー帰結関係への転換、という見方が可能になることについても考察した。(経験的つながりの「規則」への転換。)それが彼の「数学の基礎」論においても重要なテーマであったことも指摘した。(「説明」の周辺(3)

それらについては繰り返さない。ただし、非因果性について触れておきたい。粗っぽく単純化して言えば、理由ー帰結関係は規則に類比されるが、規則と言うものは単なる因果的つながりの描出ではない。その限りにおいて、理由ー帰結関係は非因果的だ、ということができるだろう。

 「メカニズム」概念には、因果的過程、非因果的過程という2通りの見方を可能にするものがあるのだ。

 

メトニミー型説明の中にも、「メカニズム」概念の二重性に似たものを見ることができないか。

すなわち、メトニミー型説明のなかに、非因果的つながり、因果的つながりの二重性を見たいのである。

 

※因果的ー非因果的という対立と、時間的ー無時間的という対立との関係については、次回取り上げる。

 

さらに、メトニミー型説明は、手段‐目的関係という観点で見ることも可能だろう。(「部分」は「全体」のための手段、という意味で。)

現実の行為において、「手段」は因果的過程を経て、「目的」を達成する。その意味で、「手段」と「目的」は因果的つながりの内にある。

その反面、「手段」は、imperfective paradoxが示すように、たとえ「目的」が達成されなかったとしても、「手段」としての性格を失わないであろう。その限りでは、非因果的な関係にある、と言えるだろう。

ここでも、メトニミー型の二重性(因果的、非因果的)が確認される。

 

これら「シネクドキ型」、「メトニミー型」の説明も、「美学的説明」に含めてみよう。

 

4.

以上から、実例の検討は不足しているものの、次のようにまとめてみよう。

「美学的説明」の中に、「メタファー型」「シネクドキ型」「メトニミー型」といった類型を認めることができる。それらは、非因果的つながりを表す。

ただし、「メトニミー型」は、因果的つながりの表現として見ることも可能であるという、二重性を持っている。

 

これは乱暴なまとめには違いないが、さらなる考察へのステップの役目は果たしてくれるだろう。