「説明」の周辺(24):過程に自ずから現れるもの

1.

  前回、言葉の意味の瞬時的把握 と 表情の一瞥的認知 を類比した。

その類比の周辺にある、平凡な事実の数々を確認しておく必要がある。

 

前者では、極めて短時間の「理解する体験」によって、その言葉がどう使われるか、どう使うべきか、が知られる。知られた内容は、延長を持った時間の中で自分や他人が行なう言語的行為に関わっている。

後者では、 極めて短時間の表情認知により、相手の情動、気分が知られる。その情動、気分から、延長を持った時間の中での相手の行動が予測される。

 

あるいは、有限の数列を見て、続きを書いてゆく課題についても、同様の類比が可能である。

一つの場合。数列を見ても、しばらくはどう続けていいのかわからないが、あるとき、不意に閃いて、続きが書けるようになる。しかも書けるようになるのはすぐ次の数字のみではなく、ずっと先の数字も可能になる。

また、ある人が数列を書いてゆくのを観察して、続きの数字の列を予想する場合。これも最初は見当がつかないが、あるとき閃いて、続きが予想できるようになる。

この場合、極めて短時間の「閃き」から、相手の行動の予測が可能となる。しかも、その予測は、すぐ次の数字にとどまらず、はるか先にも及ぶ。

 

しばしば、そのような閃きは、n番目の数字に関する式(例えば、aₙ =3n-1)の把握として表現されたり、それに喩えられたりする。実際に、そのような式を把握することが「閃き」の内容である場合もある。

以前、行為の把握を関数式の把握に喩えたのは、このような場合に類比する意図もあってのことだった。

 

2.

 もちろん、「閃き」や「理解体験」、「表情の一瞥」が、「理解」を必ずしも保証するわけではない。

・相手が書く数列の続きを正しく推測しなければ、「相手の意図を理解した」とは言えない。

・ある鳥を指さされて「“cormorant”とは、あれだ」と説明を受け、「ああ、わかりました」と答えた学生が、ペリカンを指さして「This is a cormorant .」と言ったなら、その学生は“cormorant”の意味を理解していない。

・テレビのスイッチを入れると、画面の中に、泣いている人物が映る。私は、彼女が悲しんでいる、と咄嗟に思う。しかし、実際はうれし泣きだったことが後でわかる。

ウィトゲンシュタインは、これらのような事態について、「適用 Anwendungが理解の規準となる」と言っている。(cf. PI 146) ただし、正しい結果が出せなくても、「あの人は、あのとき理解していた」と言い得る場合が多数あることも認めていた。

 

3.

これらの現象について、重要な特徴を抜き出してみる。

①一瞥的体験 vs 過程(出来事)process, Vorgang 、という対比。

ここで「過程」「出来事」とは、(自分や他人が)数列を続けること、言葉を実際に使用すること、表情認知の対象である人の行動、等々である。

②一瞥的体験には、それを表現する表出行動が対応する。「ああ、わかった!」「Aha!」など。表出行動は、このようにごく短いものであり得、一瞥的体験と同時または直後になされる。一瞥的体験は、このような「表現」を必ずしも伴うわけではないが、主体に自覚される体験である。

③一瞥的体験は、しばしば「像」によって表現される。あるいは、「像」を持つこととして表象される。cf. PI 139~141, RPPⅡ148

(「像」の例:aₙ =3n-1のような式、怒りの表情、「いちご」に対応する果実の像、等々)

④一瞥的体験は、「過程」「出来事」を予測し、「先取り」する。その際、予測と現実が対立することが起こりえる。つまり、予測が誤ることの可能性。それはすなわち、予測に対して「過程」が優位性を持つ、ということ。「適用が理解の規準」

 

4.

ここから、さらに粗っぽく、アナロジーを広げておこう。

ウィトゲンシュタインは、美学に関する講義の中で、「好む」という美学的態度と表現との関係について語る。

何かを好むことの表現expressionsは何であるのか?われわれの言葉、われわれが放つ感嘆詞、われわれが成す顔の表情、それらのみだろうか?明らかにそうではない。ある本をくり返し読むこと、ある服を何度も着ること、それらも、何かを好むことの表現であり得る。私は「素晴らしい」とさえ言わず、それを何度も着て、眺めるのだ。

われわれが家を建て、ドアや窓にある寸法を与える。われわれがその寸法を好むことは、必ず、われわれの言葉によって示されるのだろうか?我々が好んでいるものは、必ず、好んでいるという表現によって示されるのか?子供たちが窓を描き、われわれは子供たちが窓を間違った仕方で描いたら罰を与える、としてみよ。あるいは、誰かがある家を建てるが、われわれはその家に住むことを拒否して逃走する。(LCA, p12-3)

ここでも、「私はこれが好きだ」といった発言、感嘆詞、表情といった(短時間に行われる)表現と、長い時間を要する過程(くり返し読む、くり返し着る、罰を与える、家に住まずに逃げる、等の行為)との対比に光が当てられる。

ウィトゲンシュタインは、(敢えて言うなら)ここでも過程の方に優位を与えている(ように見える)。あるいは、諸々の過程の中に「自ずから現れるもの」の方に。

われわれがそれらを好んでいることは、様々な仕方で、自ずと現れる。(LCA, p13)

これは、人相と、行為の中に表れる人となり、との対照をも想起させる。

 

5.

では、この「一瞥的体験」は、本当に「一瞬に」起こるのか?いや、もちろん、物理的に幅のない、本物の「瞬間」に起こるわけではない。短く感じられても、ちゃんと時間幅を持った事象である。

イントロ当てクイズの場合を考えてみよう。正解に至るまでの時間は様々であろうが、正解者には「一瞬」で答えたように感じられている場合が多々あるだろう。

 

われわれの日常的なやり取り、言語ゲームの中で、それらの体験は瞬時に起こったもののように扱われる。

今「瞬時に起こったもののように」と述べたが、その内実、(あるいは)条件は何か?

一瞥的な体験の内部で、認知を成り立たせる諸過程(推論のような)が主体に識別されないこと、と言ってよいだろうか?