「説明」の周辺(26):「体験される、言葉の意味」の諸相

1.

ウィトゲンシュタインの美学に関する考察を取り上げる中で、「表情 Ausdruck, expression 」が重要な概念として浮上してきた。

我々が美学的対象について話す場合(例えば)芸術作品そのものについて語る場合もあれば、作品の「表情」、与える「感じ」「雰囲気」について話す場合もある。

作品の「表情」という概念は無論、顔の表情との類比によって成立するものであろう。

 

ウィトゲンシュタインはまた、顔の「表情」と、言葉の「表情」を類比している。同時に、芸術作品の「印象」と、それらを類比している。

「言葉の表情」とは、言葉の「感じ」や「雰囲気」などと呼ばれるものである。

すべての語は―と人は言いたくなる―なるほど異なる文脈のうちでは異なる性格をもちうるけれども、それにもかかわらずあるeinen性格―ある風貌Gesichtーをつねにもっている。それはわれわれを見つめている。―人は実際どの語もみな一つの小さな顔Gesichtであると想像しうる。それを文字に書いたものは一つの顔でありうる。さらにまた人は文全体が一種の群像画であって、そこに描かれた複数の顔のまなざしが、それらのあいだにある関係を生じさせ、その結果、その全体が一つの有意味な群像をなしていることも想像しうる。―だがある群像が有意味であるという経験とはいかなるものか。そして人がこの命題をこのように有意味なものと感じることは、その命題を用いるのにどうしても必要なのか。(RPPⅠ322、佐藤徹郎訳、cf. PPF38)

 

もしもという感じDas Wenn-Gefühl は、一つの楽節がわれわれに与えるような特殊な<感じGefühl>と比較されなくてはならないであろう。(・・・)
しかし、このような感じを楽節から分離することができるか。だが、それにもかかわらず、その感じは楽節そのものではない。というのは、あるひとはその感じをもたずに楽節を聞くことができるからである。
この点で、その感じは楽節の演奏される<表情 Ausdruck>に似ているのか?(PPF44~46、藤本隆志訳)

 

ある人がこう言うと考えてほしい、「例えば、ある本の中のよく知られた言葉はどれも、我々の心の中で、ある雰囲気Dunstkreisを本当に持っている。それは、かすかに示された、語の使用の「暈Hof」だ。」―これはちょうど、一枚の絵の中のすべての人物が、いわば別次元で、淡くおぼろげに描かれた場面に囲まれていて、そこでは彼らが別の文脈に置かれているのが見える、といったようなことだ。― (PPF35、鬼界彰夫訳)

彼は、このような類比を無条件で受け入れるわけではない。どのような類比においても類似と共に差異は付き物であり、類比の的確さはそれぞれに評価されなければならない。

それでもこれらの例は、彼の思考において、「美学的」な話題が、言葉の意味の問題とも結びついていること、決して周辺的な性格のものではないこと、を示しているかのようだ。

 

彼が、知覚的アスペクトと、体験される(語の)「意味」とを類比したことも知られている。

確かにある図、例えば一つの文字は、正しく書かれることもあれば、また様々な仕方で誤って書かれることもありうる。そして、その図のこれらの把握の仕方には、相貌Aspektが対応しているのである。-ここには、孤立した語を発話する際に生ずる意味の体験Erleben der Bedeutungとの大きな類似性が見られる。(RPPⅡ375 野家啓一訳)cf.LPPⅠ706, PPF234

 

<体験されるものとしての意味 erlebte Bedeutung>という問題は、ある図形をかくかくのものとして見たり、しかじかのものとして見たりするという問題に類似している。われわれはこうした概念上の親近性を記述しなければならない。どちらの場合にももともと同じことが問題になっているのだとわれわれは主張しない。(RPPⅠ 1064 佐藤訳)

<体験されるものとしての意味>。その様々な相が、語の「意味」あるいは「感じ」や「雰囲気」などと呼ばれる。

それぞれの相に対するわれわれの扱いには、違いが存在する。例えば「意味」と視覚的アスペクトとを類比することは、比較的自然に感じられる。一方、語の「雰囲気」はアスペクトに類比しにくいように思われる。

 

2.

「体験される意味」が「表情」に類比されるのであれば、「意味の理解の体験」が表情の理解の体験に類比されることは不思議ではない。

こうして、その「理解」体験が、「感じ Gefühl」の体験へ類比される。(だが、表情理解の体験は「感じ」の体験だろうか?それを当然視してよいか?)

 英語の“this”,“that”,“these”,“those”,“will”,“shall”といった言葉の用法を取り上げてみよ。これらの語の用法に関する規則を述べることは難しい。しかし君がその用法を理解すると、その結果、「これらの語の意味Sinnについての正しい感覚Gefühlを一旦体験するならば、人はそれらの語を用いることもできるはずだ」と言いたくなることはありうる。すなわち英語においては、これらの語もまたある独特な意味Bedeutungをもつものとみなしうる。これらの語の使用法は、いわばある特定の容貌Physiognomieのようなものとして、感覚的にとらえられる empfundenのである。

(RPPⅠ654、佐藤訳  

※ Sinn, Bedeutung, Gefühl, empfindenが使い分けられて書かれていることに注意。)

 言葉も結局は聴覚や視覚等の知覚を通して理解されるのであるから、語の理解体験を感覚体験Empfindungへ類比することも自然に思えるかもしれない。

だが、語の理解の場合に止まらず、感覚への類比が、心理学的概念をめぐる哲学的困難の大きな源泉(の一つ)である、とウィトゲンシュタインは捉えていた。

 

語の「感じ」や「雰囲気」について語ることから生じる問題を、彼はしばしば取り上げている。その際、「シューベルトには<シューベルト>という名が似合っているように感じられる」という、一見哲学にとってはどうでもよいような話題にも執着している。

シューベルトという名前。彼の顔や作品の佇まいGesteによって取り囲まれ、陰影が与えられている。―では、雰囲気Atmosphäreというものは、やはりそうやって生じてくるのだろうか。―しかし人は、雰囲気をその名前と切り離して考えることはできない。(LPPⅡp4,古田徹也訳、cf. PPF270,  LPPⅠ69,72)

そのような事実が、彼にとってどのようにシリアスな問題をはらんでいたのか。