「説明」の周辺(29):「数列の表情」?

1.

前回、ある語の「感じ」「雰囲気」と、その語の使用とを分離できるか、という問題を見てきた。「感じ」が、その使用から分離できるか否か、という問いは、両者のつながりが経験的なものか、論理的なものか、という問いでもある。

だが、はたして「これらの語が浮かんでくる仕方」を、先に記述した、それぞれの語が使われる仕方 から独立して同定できるか、という疑問が生じてくる。君は、経験による事実として、その語がこの仕方で使われる場合に常にAという仕方で浮かんでくると言いたいのか?それゆえ、次に使用される際に、普段“two”という語が浮かんでくる仕方で浮かぶこともありえる、と? そう言うつもりでなかったことは君にもわかるだろう。(BBB, p158)

偽装された論理的つながりを暴くこと、それはウィトゲンシュタインが常用する、いわばお馴染みの手法である。

哲学的探究とは概念的探究である。形而上学に本質的なこと、それは事実的探究と概念的探究の区別をぼやかすことである。(Z458 )

 もし、「感じ」と使用とのつながりが経験的なものであったなら、次のように問うことができるはずだ。

語の感じについて、自分には「もしも」も「しかし」も同じ感じがする、と言う人に出会ったとせよ。―その言葉を信じてはいけないのか?(PPF40)

もしもの感じが単一のものであることは、確かなのか?複数のもしもの感じがあったりはしないのか?君は、その語を、非常に異なった文脈の中で発語しようと試みただろうか?例えば、その語に文の主要アクセントがある場合と、隣の語に主要アクセントがある場合と。(PPF39)
「もしも」という語を発しないときには、もしもの感じは決して起こらないのか?ただこの原因のみがその感じを引き起こすとすれば、それはなんにせよ、不思議なことだ。一般に、語の「雰囲気」と呼ばれるものについても、同様である。ーなぜ、人はただこの語だけがこの雰囲気をもっていることを、それほどにも自明なことと見なすのか?(PPF42)

 

2.

だが、つながりが論理的なものであったからといって、また「使用」が明確でないからといって、語の、ある「表情」について語ってはいけない決まりなどあるのだろうか?

「表情」を感じるかどうかは、個人の問題であり、その人が「そう感じる」と言えば、受け入れるのが通常の言語ゲームではないだろうか?

しかし、もし彼が感覚言語一般をマスターしたと認められるに必要な諸規準を満足したとすれば、その時は我々は、ある新しいタイプの感覚を同定した、という彼の主張を ーたとえその感覚には公的に観察可能なものは何も付随していないとしてもー 尊重する、という事は、感覚に関する我々の言語ゲームの原初的部分なのである。(クリプキ、『ウィトゲンシュタインのパラドクス』、黒崎宏訳p202)

 

ウィトゲンシュタインが「感じGefühl」「感覚Empfindung」という概念にまつわる問題にどのように対峙したか。それについては以前から触れてきた。

感覚と内省 - ウィトゲンシュタイン交点

 感覚概念の拡張 - ウィトゲンシュタイン交点

「知る」ことと「感覚する」こと - ウィトゲンシュタイン交点

 私が彼を大変よく知っている、彼とは数えきれないほど何度も会ったり話したりしたから、と言う場合、それは感覚Gefühlの記述ではない。ではこれが感覚の記述ではないことは、何に依るのか。(・・・)
私がもちろんその顔を自分はよく知っている、確かにこれ以上ないほどに熟知している、と言う際に、私が何らかの感覚を表現しているのではないということはどのように示されるのか。
ここで 持続する熟知の感覚Gefühl der Wohlvertrautheitについて語ることは、なぜ可笑しいのか。-「君がそんなものは感じないからだ」だが、これが答えなのか。(RPPⅠ120,121)

 

人が、ある対象を熟知しているという、持続的な感覚Gefühlを感じていると私が言うような場合もまた想像しうるのではないか。ある人が、自分が長い間留守にしていた部屋の中を歩き回って、すべての古い品物のもたらす熟知の感じWohlvertrautheitを楽しんでいる場合を考えてみよ。ここでは人は熟知の感覚について語りうるのではないか?それはなぜか?-私はこの感覚を自分のうちに認めるのか?ここで感覚について語ることが意味をもつと私が思うのは、その理由によるのか?(RPPⅠ123 佐藤徹郎訳)

それらの問題は、「心理学の哲学」の主要なテーマの一つであり、繰り返し考察されるに値する。

 

 3.

 例えば、「数列の表情」というものは考えられるか?それについて語ることは、人物の表情について語ることにどこまで似ているか?

例えば、

「私は、等比数列と等差数列を一目で見分けられる。それぞれ表情が違うんだ。」

と、ある人が発言し、実際にその人が様々な数列について、一瞬で、等比数列である、あるいは等差数列である、と識別できたとすればどうか。

 

4.

数列の識別の場合、等比数列を等差数列と識別することは(3,3,3,...のような例は除く)端的にミスと見なされる。「等比数列を等差数列と見る」行為は(素面では)ありえない。

その意味で、ここで「表情」について語るにしても、それぞれの「表情」と識別の行為とは結びついている。

言い換えると、「それは等比数列である」ことと「それは等比数列の表情をしている」こととの間にズレがない、「ぴったり合っているpassen」。

その点で、使用から分離できない、語の「感じ」の場合に似る。

 

ここで、敢えて「表情」について語る意義はあるのか、という問いが一つ。

また、ある人が「自分には等比数列の表情が感じられる」と発言したとして、その発言を字面通りに受け取るべきか、という問題が一つ。つまり、その人が、等比数列であると分かるだけではなく、「感じている」と言える条件は何か?(単に知っていることと感じていることとの違いと言う問題。cf. PPF192)

「として見る」について、ウィトゲンシュタインは言う。

というのは、人が「私はそれをあるときはこういうものとして、あるときは別のこういうものとして見る」というとき、すなわち人が異なる相貌Aspekteを、それも見られたもののいかなる利用の仕方からも独立に識別するとき、私はそれを「あるものをあるものとして見る」というゲームの典型的な場合とみなすからである。
したがって、私は次のように言いたい。私は。この絵が特定の仕方で使用されることを、それがかくかくのように、あるいはしかじかのように見られている、ということのしるしとはみなさない、と。(RPPⅠ411 、佐藤徹郎訳)

 これと同様に、「使用」に完全に癒着した「表情」について語ることには、問題が認められよう。

 

 以上のようなことを背景に、次の断章について考えてみること。

 「数列は我々に対して一つの顔Gesichtを持っている」ーなるほど、でもどんな?何といってもそれは代数的な顔だ、そして展開された部分という顔だ。それ以外に別の顔があるのか?ー「だが、その中には、すべてがすでに存在している!」ーただしこれは、数列やその中に我々が見出す何かについての事実の確認ではない。それは、我々が規則の述べることのみに耳を傾けながら行動し、それ以外の指示を仰がないということの表現なのだ。(PI 228、鬼界彰夫訳)

 

 

5.

なるほど、しかし、上のような諸問題を認めてもなお、次のように問いたくなる。

等比数列の「表情」について、病的であろうとなかろうと、語ってはいけないのか?

 

あるいはむしろ、こう言った方がよいだろう。

その「表情」について語ることの、有意義な使用が考えられないか?

「・・・という言葉はその意味で満たされていた」という伝達には、「それは・・・という意味をもっていた」という伝達とはまるで違った使い方、まるで違った帰結が確かにある。(LPPⅠ785 古田徹也訳)

 この「まるで違った使い方」は、実際には何を行っているのか?その「帰結」とは何か?