感覚概念の拡張

1.
われわれは「感覚」という概念を、類比によってさまざまに拡張して使っている。「感覚への類比」に対する批判にもかかわらず、ウィトゲンシュタインは、単純にそれを禁じようとしているわけではない。

表情の「臆病さ」を「感じる」ことについての例。ウィトゲンシュタインは、「感覚」概念の変容あるいは拡張を認め、それを「感覚」という言葉の誤用としてでなく、われわれが行っている現実として受け入れる。

 われわれは、ある顔の表情に対して、それを臆病なものと(この言葉の十全な意味で)認識しない人とは異なった反応をする。-しかし、私は次のようには言わない。われわれはこの反応を自分の筋や関節において感じ取るのであり、それは「感覚Empfindung」なのである、とは。-そうでなく、われわれがここに有するのは、変容された感覚概念Empfindungsbegriffなのである。(PPF231)

 次の例は、<非現実性の感覚Gefühl>という概念についてであるが、「異なった技術」という言葉、感覚概念の拡張と技術との関わりに注意。さらに、感覚が状態である、という、ウィトゲンシュタインが強調するポイントに注意しよう。

 事実は、単純に言えば、私が ある異なった技術を担っている言葉(ein Wort,den Träger einer anderen Technik)を 感覚の表現Gefühlsauadruckとして用いる ということである。つまりある新しい仕方で用いるのだ。ではこの新しい使用法は何によって成り立っているのか?一つには私がー「感覚Gefühl」という言葉の用法を通常の仕方で学んだ後にー「私は<非現実性の感覚Gefühl>を感じる」と言うということによって。その上、その感覚が一つの状態であることによって。(RPPⅠ126)

 2
前回見たように、類比によって「私は・・・を感じる」と言いたくなること、この「感じ」という「概念が勝手に迫ってくる」(PPF191)こと、それをウィトゲンシュタインは、われわれに関する重要な事実として認める。
(それに重要な神経生理学的プロセスが関連していることは大いにありえようし、その研究は多くの知見をもたらす可能性があるだろう。)
では、いかなる「感覚」についても語ってよいのだろうか?「自分はそれを感じるのだ」と誰かが主張するなら、それは感覚だと言ってよいのか?逆に、ある人が「私はそれを知っているが、感じはしない」というなら、「それ」は感覚されていないことになるのか?
何かが「感覚(GefühlあるいはEmpfindung)」と呼ばれるにふさわしい(あるいはふさわしくない)のは、何に依るのか。

 私が彼を大変よく知っている、彼とは数えきれないほど何度も会ったり話したりしたから、と言う場合、それは感覚Gefühlの記述ではない。ではこれが感覚の記述ではないことは、何に依るのか。(・・・)
私がもちろんその顔を自分はよく知っている、確かにこれ以上ないほどに熟知している、と言う際に、私が何らかの感覚を表現しているのではないということはどのように示されるのか。
ここで 持続する熟知の感覚について語ることは、なぜ可笑しいのか。-「君がそんなものは感じないからだ」だが、これが答えなのか。(RPPⅠ120,121)

人が、ある対象を熟知しているという、持続的な感覚Gefühlを感じていると私が言うような場合もまた想像しうるのではないか。ある人が、自分が長い間留守にしていた部屋の中を歩き回って、すべての古い品物のもたらす熟知の感じを楽しんでいる場合を考えてみよ。ここでは人は熟知の感覚について語りうるのではないか?それはなぜか?-私はこの感覚を自分のうちに認めるのか?ここで感覚について語ることが意味をもつと私が思うのは、その理由によるのか?(RPPⅠ123 佐藤訳)

 (あるいは神経生理学的事実が、「感覚」概念を適用すべきか否かを、つまりは言語ゲームの使用の仕方を、決定すべきなのだろうか?仮にそうだとしても、そのような事実が知られない間はわれわれはどうすべきなのか?)

この問題は、『探究Ⅱ』xi節では、別の視点から、すなわち、「ある人について、その人があることを感覚している、といいうるのはどのような状況でか?」という観点から検討される。すなわち、「単に知っている」ことと「見ている」ことの違いという問題である。その違いが「重大な帰結をもたらすもの」(PPF192)とされるのである。

このように、「感覚への類比」は哲学的混乱の原因というネガティブな側面のみで問題にされているわけではないのだ。