表出のディレンマ(2)

 

1.

前回、「信じる」「痛みを感じる」の全体的意味をどのようにとらえるのか、と言う問題が残された。

 

ウィトゲンシュタインは、前回引用したRPPⅠ479やLWⅠ899において、「痛みを感じる」の使用の変化について語っている。注意すべきことに、それは「痛み」という概念の習得の途上に位置づけられている。

子どもが、自分の痛みを表す最もプリミティブな言語表現を学び、-それから、過去の痛みを説明するということを(も)始めるようになる。-その子は、調子のよい日に、「痛くなったらお医者さんが来るんだ」と説明することができるのである。では、「痛み」という言葉を学ぶこうしたプロセスのなかで、この言葉の意味は変わったのだろうか。-然り。この言葉の使い方が変わったのである。(LPPⅠ 899 古田訳)

痛みの表出の言語ゲームに関する、有名な断章。

ことばはどのように感覚を指し示すauf Empfindungen sich beziehenのか。・・・だが、どのようにしてその名と名指されたものとの結合がつくり出されるのか。この問いは、どのようにしてひとりの人間が感覚の名の意味を学ぶのか、という問いと同じである。たとえば「痛み」という語の意味。ことばが根源的で自然な感覚の表現に結び付けられ、その代わりになっているということ、これは一つの可能性である。子供がけがをして泣く。すると大人たちがその子に語りかけて、感嘆詞Ausrufeを教え、のちには文章Sätzeを教える。かれらはその子に新しい痛みのふるまいを教えるのである。
「すると、あなたは<痛み>という語が本来泣き声Schreienを意味している、と言うのか。」-その反対である。痛みの言語表現は泣き声にとって代わっているのであって、それを記述しているのではないのである。(PI244 藤本隆志訳、一部改変)

 「痛みの言語表現は泣き声にとって代わっている」-この表現から、ウィトゲンシュタインが「痛みの言語表現」と「泣き声」を単純に同一視していると受け取るなら、それは誤解であろう。
より重要なのは、「新しい痛みのふるまいを教える」という視点である。
たしかに、大人たちはまず、子供に泣き叫ぶ代わりに「いたい!」と言うことを教えた。しかし、引き続いて、子供は「痛み」という言葉を、否定文のなかで、3人称で、条件文の中で、・・・使うことを習得してゆく。

彼は、「痛みを感じる」という表現の使い方を、すべての人称、時制、数で学ぶだけではなく、<・・・と思う>に類する動詞や否定と結びついたかたちで学ぶ。というのも、<誰それが痛みを感じていると信じる>、<痛みを感じていないのではないかと疑う>等々は、他人に対して我々がとる自然な種類の態度だからである。(彼は、「この人は痛みを感じていると私は信じている」、「私が痛みを感じているとこの人は信じている」等々の言葉を習得する。-しかし、「私が痛みを感じていると私はは信じている」という言葉は学ばない。)

(その空間には間隙があるのだろうか。否。あるように思えるだけだ。)(LPPⅠ874 古田徹也訳)

 

子供が「私は痛い」という表現をマスターするとはこの行為を自ら行なえるようになることであり、それはそこに含まれる一定の感覚、感情、認識、態度、動作を自ら体験し、示しうることを意味する。(・・・)しかしこれで子供は「痛み」概念を得たわけではない。「私は痛い」に続き、「彼は痛い」、「あなた痛いの」、「まだ痛いの」等、様々な表現を順に覚えることにより、様々な場面での様々な態度と振る舞い、他者に関する様々な関係と感情・認識を徐々に「知って」ゆく。あたかも若い役者が、様々な劇の様々な役を演じ・マスターしてゆくことを通じて自分が表現しうる感情・認識・態度の幅を拡げてゆくように、子供(そして人間)は「痛み」に関わる様々な場面・役割・表現を次々と体験・マスターしてゆくことにより、自らが体現しうる感情・認識・態度を膨らませ、その結果として「痛み」とは何かを「知り」、「痛み」概念を獲得するのである。(鬼界彰夫、『ウィトゲンシュタインはこう考えた』p325~)

それゆえ「痛み」とは感覚の名でなく、人間がこのようにして習得するある複雑な劇の題名として最もよく理解できるだろう。(鬼界彰夫、同上、p326 cf.LPPⅡp31)

 言語ゲームの複雑化、拡張、統合という視点。

 言語ゲームの起源にして原初的形態であるものは反応Reaktionである。その上にのみ、複雑な形態が発展しうる。
言語はー私は言いたいー洗練である。「初めに行いがあった」(CV p36)

 

ウィトゲンシュタインの立場では、ある言語ゲームにおいては、「原初的形態」の先行性が重要になる場合があるだろう。というのも、もし「原初的形態」が後にくるようなゲームを想像する場合、そのゲームの性格が元のゲームと同じであるかどうかが疑問になってしまうからである。

「理解する」に関して、ウィトゲンシュタインは次のように言う。

われわれが命題の理解について語るのは、それが同じことを述べている別の命題に置きかえうるといういみにおいてであるが、しかし、また、それが他のいかなる命題にも置きかえられないといういみにおいてでもある。

(・・・)

そうすると、「理解する」ということには、ここでは二つの異なった意味があるのか。-わたくしは、むしろ、「理解する」ということのこうした慣用の種類こそ、その意味を形成し、理解ということについてのわたくしの概念を形成しているのだ、と言いたい。

というのは、わたくしは「理解する」をこれらのすべてに応用したいのだから。(PI531~532、藤本隆志訳)

概念の形成は、言語ゲームの複雑化、拡張、統合の過程からなる。

2.

「信じる」についても、「理解する」と同様、その様々な使用が「信じる」の概念を形成している、と言えるだろう。

それゆえ、「私は信じる」の使用を、別々の使用をつぎはぎしたものであるかのように表象することは誤解を招く。すなわち、主張と仮定とで、別の使用にわれわれが切り替えているのだ、と考えることは。

かの仮定においてすでに、君が考えているのとは違った方向に線は向かっている。
「私が・・・と信じる、と仮定すれば、という言葉の中に、君はすでに「信じる」という言葉の全文法、君がマスターしている通常の使用を前提している。ー君は、いわば一つの像が眼の前にはっきりと呈示できるような、物事の状態を仮定(そのような仮定の内容に、通常の主張とは異なった主張を継ぎ足すことができるような)しているのではない。ー君がすでに「信じる」の使用に習熟していなかったなら、君はここで自分が何を仮定しているか(つまり、例えば、その仮定から何が成り立つか)を知らないであろう。(PPF106) 

 「私は信じる」と、「私が・・・と信じる、と仮定すれば・・・」のなかの「私は信じる」は、無関係でないばかりか、お互いを前提とし、統合されている。
それが「信じる」という「振る舞い」である。

チェスにおいて、キャスリングする際、キングやルークが別の駒になる、と考える必要はないように、「私は信じる」は主張される場合と仮定される場合とで別の意味になる、と考えなければならないわけではない。

そうは言っても、このような表出的使用と非-表出的使用の融合は、奇妙なアマルガムとはいえないか?

「しかし、<信じる>という動詞の用法、その文法はどうしてあのように奇妙な仕方で合成されているのか?」
その用法は何も奇妙な仕方で合成されているわけではない。それをたとえば「食べる」という語の用法と比較すると奇妙に思えるに過ぎない。(RPPⅠ751佐藤訳、cf.PPF93) 

将棋における歩兵の機能(通常の動きと、と金としての動き、打ち込み場所の制限等)を、必ずしも「合成されたもの」として見なければならないわけではないように。

※ただし、実際上、われわれが、ある種の概念を単純と見なし、別種の概念(たとえばグルー、ブリーン)を複雑なもの、合成されたものと見なさざるを得ないことは、非常に重要な事実である。

3

しかし、次のような問いは残されている。

われわれは、ある一つの語について、「複数の意味を持つ」と語り、さらに、「それらの意味は互いに関連が薄い」とか「互いに深く結びついている」などと語る。.

それはどのような場合に、どのような目的で行うのか?

私がある言語に目を向け、「様々に異なる言葉が全く異なる仕方で使われている」という。

しかし、その後に私は、「それらの言葉の使い方は似ている」とも言う。それどころか、「それらの使い方は(ここでは)同じだ」とも言う。そして、さらにそれに続いて、「この言葉には二通りの全く異なる使い方がある」と言ったり、さらに、「この言葉には二通りの異なる使い方があるが、ただしそれらは似ている」と言ったりもする。(LPPⅠ285 古田徹也訳)

使い方を区別することには様々な目的がありうる。(LPPⅠ284 古田訳)

ウィトゲンシュタインは、PI551~569、LPPⅠ272~307、326~350でこの問題を論じているが、その検討は別の機会にしたい。

また、「フレーゲ-ギーチ問題」(的な問題)は、ウィトゲンシュタイン中期の数学論においても、彼自身によって問題として意識されていた。そのことの意味についても、いずれ考えてみたい。