感覚と内省

1.
「感覚」「感じ」と「内省Introspektion」という概念の結びつきについて。
「人が何らかの心理的経験をする際には、その人の心の内に、ある感覚ないし感じが、ある期間、現前・持続する。人は内省によって、その内容を知る。」という像が我々を縛っているようにみえる。

まず、「内省」によって知られる事実を、本人は決して誤ることなく認知できるかのようである。本人が嘘をつく場合を除けば、その事実の主張に対しては、反論の余地が無いように思われる。

 われわれのみが見る、他人には見えない何ものかが、ここで記述されている。それはわれわれにとっては身近でいつでも近づけるが、他人には隠されている。すなわち、われわれ自身のにありわれわれが自らの内部を観察することによって気づくようなあるもの。心理学はこの内なるものについての学説である。-このような像を助長するものは、むろん 反論の余地のなさ である。(RPPⅠ692)

 2.
われわれは「感覚」「感じ」という概念を類比によって様々に拡張して使う。「意味の感じ」(RPPⅠ350)や「非現実性の感じGefühl」(RPPⅠ126)はその例である。
そして、「その感覚とやらはどうやって知られるのか?」という問いには「内省によって」と答えがちなのである。

 この方角にある村落があるにちがいないという、裏付けもなく、そして見たところ何の理由もない感覚Gefühlのことをここで改めて想起せよ。もしもこの感覚がたいていはわれわれを欺くのでなかったとしたら、人はここで感覚によるについて語ることであろう。そしてこの感覚の源泉については、推測するか経験的に確かめるほかないのである。(RPPⅠ792 佐藤徹郎訳 cf.PPF268 )

ここで最も重要なのは次のことである。ある相違がある。人はその相違が<カテゴリー上のものである>ことに気づく。-しかしその相違の本質は何に存するかを言うことはできない。これが、内省Introspektionによって相違を認識する、と普通人が言う場合に起こっていることである。(RPPⅠ793 佐藤訳 cf.Z86)

 最後の節はやや分かりづらいが、次のように解釈できるかもしれない。
「この方角にある村落があるに違いない」という「感じGefühl」。この「感じ」が知らせることがらは、色、形、音程、等を備えた通常の視覚、聴覚とはカテゴリーを異にする。だが、この「感じ」の源泉や感官Sinnを人は挙げることはできない。そうでありながら、人はこの「感じ」を、まさに感官Sinnで捉えられる感覚Empfindungに類比的なものとして捉え、自分の内に在るもの、その内容が内省によって知られるもの、と見なす、と。

ここで、数学的な認識について語る際に、われわれが「直観Intuition」を持ち出す傾向にあることを思い出して見よう。(「数学的直観」の概念。)それは、しばしば、一つの「感覚」と解されている。

 「でも、この数列の初まりは明らかに(たとえば代数的表現によって)別様に解釈されることも可能だったのだから、君はまずそのような解釈の一つを選んだに違いない。」-まったくそうではない!状況によっては疑うことが可能だった。だからといって、それは、私が疑っていたとか、疑うこともできたということではない。(ある出来事の心理的<雰囲気>について言うべきことが、これに関連している。)
直観だけがこのような疑いを取り除くことができたのか。-それが内心の声であるなら、-自分がそれにどのようにしたがうべきか、私はどのようにして知るのか。そして、それが私を誤らせないということをどのようにして知るのか。というのは、それが私を正しく導くことが可能であるとするなら、誤らせることも可能だからである。(直観、不必要な逃げ口上)(PI213)

 3.
もちろん、ウィトゲンシュタインは、上の引用に見るように、「感覚」「直観」への安易な類比や、「内なるもの」「内省」という概念の濫用に無自覚であることに対しては批判的である。

私が彼に「君の態度を・・・のように変えてみたまえ」と言うとしよう。ー彼がその通りにするとしよう。-その結果、いまや彼の中で何かが変化した。<何かが?>変化したのは彼の態度であり、人はその変化を記述しうる。その態度のことを<彼の内の何か>と呼ぶことは誤解を招く表現である。そう言うと、まるでわれわれがいまや何かあるものをおぼろげに見ること、もしくは感じることができ、それがすなわち変化したものであり、<態度>と呼ばれるものであるかのように思われる。[実際には]すべてが明瞭に白日の光のもとに置かれているにもかかわらずーしかし「新たな態度」という言葉は何らかの感覚Empfindungを表すためには用いられないのである。(RPPⅠ1110 佐藤訳) 

 次の断章は、感覚への類比に無自覚に引きずられることの問題点を、「頭の中で考えるのを感じる」という表現に即しながら述べようとしている。

 では、われわれは頭の中で考える際の<感覚Gefühl>についても語るのか?それは<意味感覚Bedeutungsgefühl>に似たものではないのか?
さらにまた、この感覚を感じない人は考えることができないのか?
なるほど、哲学や心理学にたずさわる人は、あるいは「私は自分が頭の中で考えているのを感じる」と言うかもしれない。しかしそれでは、それが何を意味しているかといえば、その人には言うことができないであろう。すなわち、その人は、それがいかなる感覚であるのか言うことができず、単に「自分は<感じる>」という表現を、あたかも「私はこの刺すような痛みをここに感じる」と言う場合と同じであるかのごとくに用いているにすぎないのである。したがってその人は、「私は感じる」という自分の表現が、この場合何を意味しているか、すなわち、われわれがこの発言からいかなる帰結を引き出すことが許されるか、それはたとえば「私はここに刺すような痛みを感じる」という発言からわれわれが引き出す帰結と同じかどうかといったことが、この場合にはまだこれから検討されるべきなのだということに気付いていない。(RPPⅠ350 佐藤訳)

 もしも、あらゆる心理的概念を感覚への類比でとらえようとするなら、われわれはそれらを不当に単純化してしまうことになるのであり、それがさまざまな哲学的混乱につながるであろう。

 すなわち、我々は「趣味」tasteという語を或るフィーリングfeelingの名前として使っているのではないのだ。だのに君がそれをそう使っていると考えるのは、我々の言語の実地の使い方を過度に単純化して見ているのである。これこそ疑いもなく、哲学的困難が通常生じてくる仕方なのである。(BBB p144 大森訳p231)

しかしここで検討されるべき考えは次のようなものである。「君はとにかく悲しみを感じているではないか。ーだからそれをどこかで感じているはずだ。さもなければ、それは幻影であろう。」しかしもしそのように考えたくなったら、見ることと痛みの相違を思い起こせ。私は手に痛みを感じる。-では、眼に色を感じるだろうか?ここでわれわれが本当に共通のものをただ記録するだけではなく、単一の図式を適用しようとするなら、われわれの概念の世界について不当に単純化されたイメージをいだいてしまうことになるだろう。それはちょうど、庭のすべての植物には花があり、すべてが花弁やー果実やー種子をもつと言うようなのものである。(RPPⅠ803 佐藤訳 cf.Z510)

 「私は・・・を感じる」と言いたくなるとき、その「感じ」ないし「感覚」の文法は、未だ明らかではない。
「頭の中で考えるのを感じる」というフレーズは、それだけでは一つの「像」に過ぎないといえよう。
それがどのように使用されるかは、さらに検討されなければならないのだ。

 われわれがこの命題を用いるということだけでは、まだわれわれにとって何の意味もない。なぜならわれわれにはその使用法の途方もない多様性がわかっているからである。したがってわれわれは、いかにという点を問題にする。(RPPⅠ367 佐藤訳)

4.
だが、ウィトゲンシュタインは、単純に、「感じ」という言葉をこのような場面で使うな、と言っているわけではない。ここで「感覚」への類比が生じること自体、きわめて重要な、注目すべき事実であるかもしれないのだ。

 だが、町がこの方向にあると感じている人は、自分の体験を正しく表すためにはどのようにするべきなのか?例えば、彼はそれを感じると言うことは正しいのか?彼は本来それを表す新たな言葉を鋳造すべきなのか?だが、その場合、ほかの人はその言葉をどのように学ぶのか?その言葉は、体験を表す原初的な表現の内にはないのだから。おそらく、彼はこう言いたくなるだろう「あたかも町がそちらのほうにあることを自分が知っているかのように、私は感じた。」そして、この状況下で、彼がこのようなこと、あるいはそれに似たことを言うという事実それ自体が、この特異な体験の表現なのである。(LPPⅠ789)

 ここで「感覚」という概念が、われわれに「勝手に迫ってくる」。
後にも触れるが、そのこと自体は極めて重要な事実と言ってよい。

われわれの体験を表現するのにある特定の言葉を用いたいという逆らうことのできない傾向が存在することが、どうしてあってはならないのか。またそれにもかかわらず、われわれが自分の体験について反省してみると、その言葉は人を惑わすものである、ということがどうしてあってはならないのか。

私の言いたいのは、見ることとの比較がさまざまな点でぴったりしないにもかかわらず、われわれが「見る」と言いたくなることがどうしてあってはならないのか、ということなのである。あらゆる差異があるにもかかわらず、ある類似点に深く心を動かされるということが、どうしてあってはならないのか。(RPPⅠ1038 佐藤訳)


大切なことは、一つには、この新しい「感覚」(その例として、新たな「見る」)と他の「感覚」の、言語ゲーム上の差異に盲目とならないことであり、もう一つは、この2つの「感覚」の類似の内実について、正しく認識することなのである。類似と差異を明確にすること、それが「概念の規定」である。

 ここで、概念を規定することが重要であること、それを見て取ることが難しいのである。
概念は勝手に迫ってくる(そのことを忘れてはならない。)(PPF191)