「説明」の周辺(28):表情を名指す

1.

 ここまで、ウィトゲンシュタインの『美学講義他』に倣うつもりで、顔、芸術作品、言葉等の対象がもたらす「印象」をそれぞれの「表情」として捉え、感覚を基盤として対象と主体との界面(インターフェイス)をなすものと見なした。

 

そして「表情」の様々な性格、それに関する様々な問題を見てきた。それらは未整理のままになっているが、もう一つ加えて、次のことを問うておこう。

ウィトゲンシュタインは、「表情」について語ることに、どのような危険や陥穽があるとみていただろうか?

 まず「表情を名指すこと」に、様々な問題が潜んでいるかもしれない。が、今は、「表情」を、名詞、代名詞、名詞句によって名指すこと自体については問題視せず、一旦先に進む。

 

2.

 彼が常に強調することだが、「名づけ」が一様な行為に見えてしまう(これ自身錯覚だが)のに対して、現実の「名の使用」は、極めて多様なあり方をしている。

「名づけ」は、単純でありながら、込み入った結果を生み出す行為のように見える。

名づけとは、音声(あるいは他の印し)と あるものとを、奇妙でミステリアスな仕方で結び付けることだ、と考えようとする強い誘惑が存在する。そして、この奇妙な結びつきをわれわれがどう使用するかは、ほとんど二の次の問題に見えてしまう。(BBB, p172)

例えば、京都の清水寺の仁王門に「清水寺」と書かれた扁額が掲げられている。一台のプリウスには「プリウス」というネームプレートが貼られている。だが、「清水寺」(という名)と清水寺(という寺院)とのつながりは、その事実関係に尽きるわけではない。プリウスについても同様である。

われわれは、名が対象自身の上に記されていること自体は重要なことではなく、関心を惹きもしない、と感じる。たしかに、それは事実である。対象の上に記された名の、個別的な様々な使用が重要なのだ。しかしわれわれは、名は対象に対して奇妙な関係を有している、と言うことで、事態をいわば単純化してしまう。その名が対象自体に記されている、人が対象を指さしてその名を発語する、等の事実には収まらない、奇妙な関係が成り立っている、とされるのである。プリミティブな哲学は、名の使用全体を、一つの関係の観念の内に圧縮する。それによって、その関係は、ミステリアスなものとされてしまう。(BBB, p172-3)

 名が対象の表面に記されていることなどは「外的」なことに過ぎない、と言いたくなるが、より重要なことが何かミステリアスな次元に存在しているわけではない。

われわれは「名と対象との関係は、そのようにトリヴィアルで<純粋に外的な>つながりに在るのではない」と言いたくなるが、それが意味することは、われわれが名と対象との関係と呼ぶものは、その名の使用の全体によって特徴づけられる、ということである。
だが、そうであれば、次のことは明らかだ:名の対象に対する関係は一つしかないわけではなく、われわれが名と呼ぶ音声や字面の使用の多様さと等しい数だけある。(BBB, p173)

見るべきは、現実に多様な使用が重なりあって存在するという事実だ。

ここでは、一つの名における使用の多様性、様々な名の使用の間の多様性、の両方が重要である。

 

 前々回、簡単に触れたように、言語の「表情」と呼ぶべきものにも、「意味」「語感」「語の雰囲気」等、さまざまな捉え方が存在する。それぞれの概念の使用には差異と重なりとがある。

(以前見たように、ウィトゲンシュタインは、「体験される意味」を視覚的アスペクトに類比したが、同時に、諸々の視覚的アスペクトが異種のものから成り立っていることを強調している(cf. PPF 212-3)。それに倣って、さまざまな「表情」的概念の異種性を強調することができるだろう。)

 

そのような、「表情」に関する言語ゲームの多様性を無視して、単純化してしまう危険がまず挙げられる。

 

3.

だが、さらなる危険として、次のことがある。

 われわれの陥っている困難を次のように言い表せる。われわれは、当の名の使用について明確にすることなしに、ある経験にある名を与えることができると感じる。あるいは、事実上その名を使うつもりがない場合でも、名を与えることはできる、と感じる。

それゆえ、“赤”(という語)が特定の仕方で浮かんでくるcomes、と言うとき、私はその仕方に対して、まだ名前がないならば、ある名前、例えば“A”を与えられるかのように感じる。ところが、その際、私には、次のようなことを言う準備がない:“A”が常にそのような状況で 浮かんでくる際の仕方とは、こうである、とか、総じて“A”が浮かんでくる仕方はA,B,C,D の4つの内のどれかである、とか。(BBB, p159)

 われわれは、ある「表情」に名前を与えれば、その使用が明確でなくても、何ごとかを言ったつもりになりがちである。

 

特に「表情」については、他の「表情」との比較に持ち出されているか否かがポイントとなることが多い。

以前の「説明」の周辺(16):「驚き」の行方(後) を参照.。

そこでは、「私は、ある特定のparticular表情をした顔を見ている。」のような発言が、「<特定の>という語が、比較の存在を示しているようにみえながらも、そうではない」(BBB,p162)仕方で使われる場合、それを「病的な表情記述」として捉えた。

これを「読むというのはまったく特定の過程だlesen ist ein ganz bestimmter Vorgang」「私の発音する言葉は特別の仕方でやってくるkommen in besonderer Weise」(PI 165)といった発言と比較すること。

さらに、これらを「私には、‘シューベルト’という名は、シューベルトの作品と彼の顔にぴったりしているかのように思われる」(PPF270)という「病的伝達pathologische Mitteilung 」(LPPⅠ73) と比較すること。

すなわち、「ある、まったく特定の」「特別の」「ぴったりと合う」等の、上に見るような使用は、比較のないところであたかも比較が成立しているかのような暗示、「表情」の自分自身との比較が成り立っているかのような錯覚、を与える。そう、ウィトゲンシュタインは捉えているのだ。

(ただし、 「ある、まったく特定の」等の語句は常に病的に用いられる、と主張されているわけではないことに注意。)

 ここではこれ以上立ち入らないが、彼が「ある、まったく特定の」「特別の」等の表現を私的な直示的定義と比較していることに注意しておこう。

(cf. RPPⅠ200、BBBp174)

 

 4.

 そもそも、「表情」に与えられた名の使用を明らかにしたいなら、その「表情」がどのように同定されるか、という問いは避けて通れないだろう。だが、その同定においてすでに問題がある。

だが、はたして「これらの語が浮かんでくる仕方」を、先に記述した、それぞれの語が使われる仕方 から切り離して同定できるか、という疑問が生じてくる。君は、経験による事実として、その語がこの仕方で使われる場合に常にAという仕方で浮かんでくると言いたいのか?それゆえ、次に使用される際に、普段“two”という語が浮かんでくる仕方で浮かぶこともありえる、と?(BBB, p158)

 つまり、ある語の感じを、その語の使用から切り離して認知できるか、という問題である。

その使用から切り離せないのであれば、その「感じ」は、その語にまさしく「ぴったりと合った」、その語に独自の存在のように思われて不思議はないだろう。

つまり、対象から分離できない「表情」―感じ、雰囲気、など―の問題と、「ぴったりと合う」「ある、まったく特定の」等の言葉の「病的使用」の問題は結び付いている。

「私はそれを、ある、まったく特定の表情でmit einem ganz bestimmten Ausdruck 歌うのだ。」ここでいう表情は、その一節から切り離すことができる何か、ではないのだ。( PPF48)

ものDingから分離できない雰囲気 ― それは、雰囲気ではないのだ。(PPF50)