計算自身に固有の応用

1.

これまで、(単純化して)述べてきた、中期の見地、後期の見地、それぞれに対して、素朴な批判が思い浮かんでくる。

 

中期の見地に対して:

様々な数学のシステムについて、各々が応用から峻別されて、自立して存在するかのように捉えられているが、それは「数学的プラトニズム」を主張するに等しいのではないか?

 

後期の見地に対して:

「記号ゲームを数学にするものは、数学外での使用Gebrauch、したがって記号の意味Bedeutungである。(RFMⅤ 2 ,中村秀吉・藤田晋吾訳)」と主張されるが、「応用を持っていない」数学の分野は数えるまでもなく膨大に在るはずで、それらも「数学」であることについてはどう考えるべきか?

 

2.

二つの疑問に回答を試みる前に、確認しておくべきことがある。

「数学の応用(適用)Anwendung」と言うとき、ウィトゲンシュタインは、ある特定の「応用」をも含めて言っていた。それは、中期、後期とも変わらなかった。

※ Anwendung, Verwendung, Gebrauch, これらの言葉を、ウィトゲンシュタインが意識的に使い分けようとしていたかどうかについては、他の場面でも問題となるものの、未検討である。

ある特定の「応用」が、いかなる数学においても不可欠である、否、その「応用」が数学の営みそのものである。

すなわち、数学の営み自体が、社会の中での、計算の営み(規則に従った操作と言う意味での。つまり、ここでは数式を変形して証明を構成する行為なども含めて計算と呼ぶ。)にほかならない。発表される数学の論文は、その内容が規則に従った営為の産物であることを公共的に認められなければならない。
ウィトゲンシュタインによれば、現実に数学をする営み、すなわち数学的記号を現実に操作(計算)し、構成することが、その数学自身の応用なのである。

 算術はそれ自身で十分確かに基礎づけられているように思える。そしてそれはもちろん、算術とは、それに固有の応用にほかならぬからである。(PGⅡ15,坂井秀寿訳) 

算術とは、算術の固有な応用である。計算とは、計算の固有な応用である。(PGⅡ15,坂井訳)

 
数学的命題の一つの適用Anwendungは、つねに計算すること自体でなければならない。このことは、計算活動が数学的命題の意味Sinnに対してもつ関係を決定する。(RFM Ⅳ8,中村・藤田訳)

 計算自身が計算の固有な応用であるというテーゼ、これを、計算の自律性のテーゼと呼ぶことができよう。

ウィトゲンシュタインが強調した、文法の自律性、言語の自律性との関連に注意。

 なぜわたくしは料理の規則を任意なものと呼ばないのだろうか。また、なぜ文法の規則を任意なものと呼びたくなるのだろうか。<料理>はその目的によって規定されるが、それに対して、<語ること>はそうではないからである。それ故、言語の用法はある意味で自律的であるが、料理や洗濯はそうではない。(Z320, 菅豊彦訳 cf.PGⅠ133)

 

われわれにとって言語は、ある特定の目的を達成する制度として定義されてはいない。(PGⅠ137,山本信訳)

 3.

中期の見地に対する疑問については、次のように答えられよう。

数学は、ある特定の目的を達成するためのものとして定義されない、様々な、規則に従う、人間の営み(計算)からなる。

その限りにおいて自由かつ自律的なシステムではあるが、あくまでも人間が作り出すものである、と。

 

これに関して、奥雅博は中期の立場につぎのようなディレンマを見ている。

 「ゲーム」である数学は永遠な存在ではなく我々の所産である・・・しかしこの観点に立つ限り、数学を作る者としての数学者、数学を作ることとしての数学的問題、これら両者を消去する訳にはいかない。にも拘らず数学を「リファレンスを欠いた」「明確な規則に支配された」「ゲームとしての体系」と考える限り、数学の「展開」「発展」における「連続的」「歴史的」側面を説明することは等閑視される。個々の体系は各々が完結した小宇宙だからである。そしてこのような事情が「数学的問題」をめぐるウィトゲンシュタインのディレンマなのである。(『ウィトゲンシュタインの夢』p64)

 ここで、「過程と結果が同等である」ような数学観(『論考』の射程)を徹底すると「数学的問題」という概念が消滅してしまう、という、ウィトゲンシュタイン自身が自覚していた困難が関わってくる。(詳しい説明は省略。)

次のように言うことはできないだろうか。ユークリッド平面の幾何学においては、角の三等分を求めることはできない。なぜなら角の三等分は存在しないのだから。角の二等分を求めることはできない。なぜなら、角の二等分は存在するのだから。

ユークリッドの原論の世界においては、角の三等分を求めることができないのと同様、それについて尋ねることもできない。角の三等分は、簡単明瞭、問題とならない。(PGⅡ27,坂井訳)

これらすべてのことから、むずかしいものは問題でない以上、数学にはむずかしい問題は存在しないという、パラドックスが帰結しないであろうか?(PGⅡ25,坂井訳)

(中期のウィトゲンシュタインは、あくまで自身の姿勢を徹底することでこの困難に答えようとしていた。ただし、今はこれ以上立ち入らない。)

4.

後期の立場に対する疑問については、「すべての数学には、その営み自体という応用が存在する」と答えれば、それで済むのだろうか?そうではあるまい。

 そもそも、RFMⅤ2 で言われていたのは、「数学での使用」だった。

また、特定の目的から自由な、規則に従った記号操作が現実に行われているとして、そのすべてが数学であるわけではもちろん、ない。

数学がゲームなら、ゲームをやることは数学をやることだ。すると、なぜダンスをやるのも数学をやることにならないのか。(RFMⅤ4, 中村・藤田訳)

 

ここで、答えとしてまず思い浮かぶのは、既存の数学への類比が、新たなシステムが数学に纏め上げられるにあたって大きな役割を果たすことの指摘であろう。 (類比の復権

「応用を持たない数学」も、類比を遡れば、結局は「数学外での使用」を持つような数学の分野に結びついているのだ、と。

その類比は、緊密な結びつきに見えるものもあれば、緩い結びつきに見えるものもあるかもしれない。ウィトゲンシュタイン自身は、数学を成り立たせる類比の非‐均質性を信じていた。

私は、 数学とは諸証明技術の雑色の混ぜものであるといいたい。-そして数学の多様な適用可能性と重要性は、そのことにもとづいている(RFMⅢ46,中村・藤田訳)

私は数学の雑色性Buntheitを解き明かしたい。(RFMⅢ48)

<数学>は鋭く区画された概念ではない。(RFMⅤ46,中村・藤田訳)

 だが、このアイデアを受け入れるとしても、未だ中心に問題が残るだろう。

「記号ゲームを数学にするものは、数学外での使用、従って記号の意味である。(RFMⅤ 2)」と言われるとき、「数学にする」とはそもそもいかなることを言うのか?

 数学を一つのゲームと語ることは、証明の際、記号の意味に、したがって数学外への適用に訴える必要がないことを意味する。ではいったい、これらのものに訴えるとはいかなることか。いかにしてそのような訴えは何かの役に立ちうるのか(RFMⅤ4,中村・藤田訳)