1.
ここで扱う文の暫定的な分類を行う。また、その分類を前提に、扱う形式の絞り込みを行う。
まず、大枠を決定する。
・主節の動詞として、知覚動詞の内「見る」「見える」が用いられたものに限定する。「見られる」を用いた文や、「聞く」「聞こえる」等の文に関しては、今後の課題とする。
・ここで扱う文は、出来事を範例とした「内容」を表現するものに限り、ある「対象」を見ることのみを表現した文は扱わない。
〇 私は、ライオンが走るのを見た。(「内容」としての、「ライオンが走る」という出来事)
✕ 私は、ライオンを見た。(「対象」としての「ライオン」)
実際には、この区別は微妙で明らかに問題をはらむ(それ故、「対象」「内容」は厳密なカテゴリーとして扱わない。)。が、議論を始めるために、このような曖昧な枠組みから開始する。
〇 私には日の出が真っ赤に見える。(「対象」=「「日の出」、「内容」=「日の出が真っ赤だ」)
✕ 私は真っ赤な日の出を見た。(「真っ赤な」は「対象」=「日の出」の連体修飾語)
下の文でも、意味的には「真っ赤な」は「日の出」とともに「内容」を表現する、と見なすことが可能だろう。しかし、ここでは敢えて形式的に除外する、ということである。
具体的には、①補文で「内容」が表される文、または②「対象」を表す名詞句と、その述語のように機能する語句を併せ持つ文、に限定する。
2.
これを暫定的に次のように分類する。
Ⅰ 補文ノ型
Ⅱ 補文ト型
Ⅲ 補文カ型
Ⅳ 補文+連用形型
Ⅴ 小節型
Ⅵ 名詞句ト型
Ⅶ ヲ格対象型
Ⅷトシテ型
Ⅸ ニ格型
まず、補文の有無と補文標識の形式によって、Ⅰ~ⅣとⅤ~Ⅸに分ける。後者は、「対象」がガ格をとるもの(Ⅴ~Ⅵ)、ヲ格をとるもの(Ⅶ~Ⅷ)、ニ格をとるもの(Ⅸ)に分かれる。
基本的に、「見える」は「対象」のヲ格をとらないことを確認しておく。「...ヲ」見ることには能動性が存在し、「見える」の自発性とはなじまないかのようである。
私は、彼を善人と見る。
*私には、彼を善人と見える。
以下、簡単に解説する。具体的な検討は今後とする。
Ⅰ~Ⅳにおける「補文」とは、基本的に主述関係を備え、補文標識を持つものを言う。補文標識の形式によって以下の分類を行う。
Ⅰ 補文ノ型
補文節をとり、補文標識としてノ、トコロを用いるもの。
1, トビが舞うのが見える。
2. 彼らが弁当を食べているところを見た。
Ⅱ 補文ト型
補文節をとり、補文標識として、ト、モノトを用いるもの。
3. 私は、彼が首謀者であると見る。
4. 犯人達は慌てて出ていったものと見える。
Ⅲ 補文カ型
補文として、カ、カドウカを末尾に持つ疑問表現をとるもの。
5. 芳夫は、蓋を開けて、中身が傷んでいないか(どうか)見た。
6. 監視カメラの録画で、誰が入ってきたか、見てみよう。
Ⅳ 補文+連用形型
この型はⅤ 小節型と形式が共通する。次でⅤと一緒に説明する。
注意しておきたいのは、「見る」「見える」が補文標識コトをとらないことである。
*彼らが弁当を食べていることを見た。
*彼らが弁当を食べていることが見えた。
以上Ⅰ〜Ⅳでは、補文において、「対象」は基本的にガ格(ハによる代行も可)をとり、対応する述語は基本形あるいは連体形で現れる。
「見る」のル形で、現在テンスの表出的使用が存在するのはⅡに限られるようだ(例文3を参照)。「見える」の場合は、Ⅰ〜Ⅳすべてで表出的使用が存在する(例文1,4を参照)。具体的な確認は、今後にまわす。
Ⅴ 小節型
「対象」が、名詞句+ガ格で表示され、それに対応する述語表現が連用形で用いられるもの。
7. 富士山が、とても美しく見えます。(イ形容詞連用形)
8. その兵士はとても勇敢に見えた。(ナ形容詞連用形)
9. その絵は、いわゆるトリックアートで、画面から人が跳び出して見える。(動詞タ系連用形)
次の場合もここに入る。
10. タヌキとアナグマは同じ仲間に見えるが、そうではない。(名詞句+判定詞ダの連用形)
さて、同様の形式([連用形+「見る/見える」])で、助動詞の連用形の場合もある。ただし、この場合、主要述語(動詞、形容詞、名詞句+判定詞)が別に存在することに注意。
11. この図形では、目の錯覚で、平行線が曲がっているように見える。(ヨウダの連用形)
12. 通行者が、豆粒みたいに見える。(ミタイダの連用形)
下の文では、述語である名詞+判定詞「豆粒だ」が助動詞ミタイダに接続することで、判定詞のダが無形化していると考えられよう(cf. 益岡・田窪『基礎日本語文法 第3版』p27、31)。
次のような文も、述語はナ形容詞「馬鹿だ」であり、ヨウダに接続することで、連体形~ノをとっていると考えられる(cf. 同書、同箇所)。
13. 正直な者が馬鹿の ように見えてしまう。
さらに次のようなものもここにまとめておく。
14. 彼女は後悔しているふうに見える。
15. 遠近法的な錯覚で、遠くにいる人物が、小人であるかの如く見える。
フウニ⇐フウ(名詞)+判定詞ダの連用形、
ゴトク⇐ゴトシの連用形、と見なすわけである。
[連用形+「見る」]には、もう一つ特異な型があるのだが、それはⅧで扱う。
さて、注目すべきことに、先に見た形容詞、動詞、名詞+ダの型には、一般に「見る」の文が存在しない。
*富士山がとても美しく見る。
*水面が光って見る。
*タヌキとアナグマが同じ仲間に見る。
しかし、ヨウニ、ゴトク等を使用した文では、「見る」の文が存在し、非表出的な使用が可能である。(ただし後出のⅦ型にする方が自然な文になるであろう。)
16. 彼が悪魔であるかのように見るのは間違っている。
17. 彼女は、きっと彼が諸悪の根源のごとく見るであろう。
これと、主要述語の有無という違いを考慮して、前と後のグループとで区別・分割しておきたい。
後のグループは、連用形の助動詞他(ヨウニ、ミタイニ、ゴトクetc.)とは別に、述語が備わっていた。ここではヨウニ、ミタイニ、ゴトク等を補文標識のように見なし、これらの文を、<Ⅳ 補文+連用形型>と名付けて分類する。(このような見方が妥当かどうかは検討する必要があるが、便宜的にそう分類しておく、ということ。)
前のグループ、すなわち形容詞、動詞、名詞+判定詞の型を、<Ⅴ 小節型>とする。
Ⅵ 名詞句ト型
「対象」が、名詞句+ガ格で表示され、述部が名詞句+トで表されるもの
18.私は、彼女が犯人と見る。
19.彼女には、彼が不審人物と見えたのだろう。
20.私は、 彼女が犯人であると見る。
21.彼女には、彼が不審人物であると見えたのだろう。
18,19がⅥ、20,21がⅡの文型であるが、関連、類似は明らかである。ここでは両文型を区別しておく。(現実には19,21はやや不自然か? 小節型「不審人物に」の使用が普通であろう。)
Ⅶ ヲ格対象型
以上の文型では、「対象」は基本的にガ格をとった。それらに対し、Ⅶでは、ヲ格をとることになる。「見える」文は「対象」にヲ格をとれないので「見る」文のみが属する。
またⅠ〜Ⅵに対応する、すべての文型がとれるわけではない。Ⅰ、Ⅲ、Ⅴに対応する型は存在しない。すなわち、Ⅱ、Ⅳ、Ⅵに対応する形式のみが許容される。
22. 私は、彼女を犯人だと見ます。(⇒Ⅱ)
23. 私は、彼女を犯人と見ます。(⇒Ⅵ)
24. 彼を悪魔のように見るのは間違っている。(⇒Ⅳ)
このような文は、日本語学において「認識動詞構文」と呼ばれるものの一つとみなせるだろう(cf. 三原健一『日本語構文大全Ⅱ』第3章)。
Ⅷ トシテ型
「対象」がヲ格、その「述部」が名詞句+トシテで表される。これも「見る」文のみである。
25. 国民は、その侵攻を許されぬ過ちとして見ているのだ。
意味的には、Ⅵの名詞句ト型に似ている。ただ、前々回触れたように、ル形での表出的使用(現在テンス)は、許容性が低いように思われる。
私は、彼を首謀者と見ます。(現在テンス)
? 私は、彼を首謀者として見ます。(未来テンス)
私は、彼を首謀者として見ています。(現在テンス)
仮に[トシテ⇐ト+スルの連用形]と見做した場合、[連用形+「見る」]の形式であるものの、トスルのは「見る」主体である点で、ここまでの文型とは構造が異なると考えられる。
Ⅸ ニ格型
「対象」をニ格で表し、その「内容」をヲ格やガ格で表現する。
26. 私は、娘の敏子に、彼女の面影を見るのだ。
27. 彼の表情に焦りが見える。
ただし、反論があるかもしれない。27は、次のような、単に ある対象がある場所に見えることを表す場合と同じではないだろうか?この場合の「対象」はガ格の方で、二格は場所を表す。
28. ガラス瓶の中に、金属片が見える。
ここで敢えて28から27 のような文を区別するのは、26や27において「敏子」や「彼の表情」は単なる場所ではなく、「彼女の面影」や「焦り」は、それらの「相貌aspect」であるからだ。ウィトゲンシュタイン風に言えば、切り離せない「表情」(PPF46,48)であり、いわば「敏子」=「彼女の面影」、「彼の表情」=「焦り」であるからだ。これに対して、28では、「金属片」は「ガラス瓶の中」の「相貌」として捉えられてはいない。(この違いがどこまで明確であるかは問題だが、ここでは立ち入らない。)
ニ格で場所を表す場合、通常は「見える」や「見つける」等を使用した文が使われる。「見る」の使用は少し不自然に感じられる。
生け花の中にナメクジを見つけた。
生け花の中にナメクジが見えた
生け花の中にナメクジがいた。
(?) 生け花の中にナメクジを見た。
また、
(?) 私は、生け花の中にナメクジを見る。(⇒未来テンス)
これに対して、26は現在テンスで表出的に使われている。このように、26のような文を区別して取り上げる根拠が存在する。
「...に...を見る」という構文は、「二重目的語構文」に類似している。
私は、来月、義母にお中元を贈る。
この類似に意味があるのかどうかも考えてみたい。
最後に、2つ。
「見る」文のル形で、現在テンスの表出的使用があるカテゴリーを確認しておく:Ⅱ、Ⅵ、Ⅶ、Ⅸ(文例 3, 18, 22, 23, 26を参照。 )
ここで取り上げた構文には、属性叙述との親和性が低いものも、高いものも存在する。その具体的なあり様は、今後確認してゆく。