Topic time とテンス・アスペクト(10)

1.

topic time は、前回に見たような「時間」の構造 time structure を背景とし、その中に織り込まれる。それによって、他のtime span との間に関係が成立する。

また、どのtime span にも、topic time になる可能性がある(Time in Language, p80)。このように、テクスト内での様々なtopic time 同士の関係が可能になる。

全てではないけれど、多くの言語では、あるsituation をTT(topic timeの略号)にリンクさせるのに様々な仕方がある。それを可能にするのは、TU(time of utteranceの略号)に関係するTTはどれもtime structure の一部であるという事実、つまり、そのTTの前後に数々の可能なtopic time が存在する、という事実である。(Wolfgang Klein, Time in Language , p7)

<topic time>には、次のような重要な特性がある。

・様々な長さをとることができる。いわば、伸び縮みする。

・量化される(to be quantified)ことが可能。

これらの重要な面について、Time in Language(TL)からの引用によって簡単に確認しておこう。

 

2.

まず、TT(topic time)の伸び縮みについて。

 

裁判にて、裁判官が証人に次のように訊ねたとする。

(2) あなたが部屋を覗いた時、何か気づきましたか?

これに対して、次のような返答があったとしよう。

(1) 明かりが点いていました。

(3)テーブルの上に本がありました。ロシア語の本でした。

(1), (3)の例では、TTは裁判官の質問によって、明確に与えられている。それは、発言者が部屋を覗いた時、である。
このTTは、TU(time of utterance) に先立った、はっきりと区切られた短い期間である。だが、これは、主張がそれについてなされる時間(すなわちTT)の、非常に特殊なケースに過ぎない。他の可能性についても考えてみよう。例えば、ある発言のTTが大変長いことを想像できる。例えば、過去すべてにわたる場合や、全く何の制限もない場合を。後者では、TUはTTに含まれているはずだから、テンスは「現在」である、と想定してよいだろう。「2+2は4である 」のような発話が「無時間的」現在時制を持つことは、これによって説明される。(TL, p6)

無論、それもまた、極めて多様なTTの長さの特殊な例に過ぎない。このような極端な例を含めて、TTは様々な長さをとりうる。

Klein は、例えば、<史的現在時制histrical present >についても、上のような方向で説明している。それらの試みが果たして成功しているかどうかについては後日検討できればと思う。

 

3.

TTの量化について。

TTは量化されることもある。
私がカーラを訪ねたときにはいつも、彼女はベッドに横たわっていた」、「チャックは、よく椅子に座って過去に関する夢想にふけっていた」、これらのケースでは、主張は複数のTTに関してなされている。それらTT はいずれもTUより以前に位置し、カーラ がベッドに横たわることのTSit(time of situation)、あるいはチャックが椅子に座り過去を夢想することのTSitの内に限局されている。量化されるのは、'event'  と見なされるsituationのみでないことに注意しよう。「気温が0度以下である」というsituationは、eventとは 呼ばれない。しかし、「三たび、気温が0度より下がった」と言うことは 全く可能である。このように、TT は定的definiteであることも、不定的indefiniteであることもあるが、少なからぬ発話utteranceが、その点については曖昧である(名詞句 に対しては、多くの言語で、定冠詞、不定冠詞のようなシステマティックな印づけが存在するが、このようなTTの違いに対しては似たものは存在していない)。(TL, p7)

このような量化や曖昧性が可能なのは、次のような事実があるからだ。

<John sleep>,<John be in Beijing>,<John open the window>のようなelementary lexical contents は、いかなる回数の規定をも含んでいない。(TL,p206)

<elementary lexical content>は、はっきりと定義されてはいないが、<elementary clause>に似たもの、述語predicate と項argument(主語含む)から成り、時間的副詞句を含まないものである、と解釈しておこう。

しかるに、次のように想定しようとする、強い傾向が存在する。

(41)  a. John slept.

        b. John was in Beijing.

        c. John opened the window.

といった発話は、通常の場合、それらの事柄が、一度生起することを言うのである、と(また、その生起はtime of utterance より以前、と想定される)。(p206)

だが、そのような想定の根拠は、言葉の意味の中にはない。

しかし、そのことは、発話において言われたことから帰結するのではない。とりわけ、lexical content自体に含まれたことから帰結するものではない。

<John sleep>は<John sleep once>を意味しない......(p206)

我々が、(41)の各文を、一回性のsituation の描出として解釈する習慣があるとしても、その解釈はその文の意味から由来するのではなくて、world knowledge から来る結果なのである(p206)。

Klein の立場では、(41)のような文を、一回性のsituationとして読む('single-situation reading')ことと、習慣性のsituation として読むこととは、文の意味に対して対等であり、いずれかが他方の基礎にある訳ではない。

それはつまり、elementary lexical content は、元来、時間軸上で何度も反復して現れることが可能なものである、ということだろう。

ただし、文の意味内容によって、'single-situation reading'されやすさ、'iterative reading'ないし'habitual reading'されやすさ、は大いに影響を受ける。そこにworld knowledge が関わってくるが、その辺の事情には、今は立ち入らない。

habitual aspect とimperfective aspect との関係について考えることは重要な課題の一つである。その前提として、上述のことに留意しておこう。