表出と記述

1.
ここまで見てきた「表出」や「叫び」という概念には、さまざまな曖昧さが付きまとっている。

たとえば、自らの心理に関する一人称現在時制の文の中には、自らの心的状態の「記述」と呼ぶべき文もあることを、ウィトゲンシュタインは認めていた。

 あるひとが「わたくしはかれの来るのを望んでいる」と言うとき、-これはその人の心の状態に関する報告なのか、それともそのひとの希望の表出Äußerungなのか。-わたくしは、たとえば自分自身に向かってそう言うことができる。でも、わたくしは自分に向かって報告はしない。それは溜息でありうるが、溜息である必要はない。わたくしが誰かに「わたくしはきょうは自分の考えを仕事に向けていることができない、いつもかれの来ることを考えている」というなら、-ひとはこれをわたくしの心の状態の記述だと謂うであろう。(PI585 藤本隆志訳)

「わたくしはかれを待っている」とわれわれが言うのは、かれの来ることをわれわれが信じてはいても、かれの来訪にわれわれが心を奪われていないときである。(「わたくしはかれを待っている」というのは、ここでは「かれが来なかったとしたら、わたくしは驚くことだろう」ということであり、-これをひとはある心の記述とは謂わないであろう。)しかし、われわれはまた、わたくしはかれを待ち焦がれている、ということをいみすべき場合にも、「わたくしはかれを待っている」と言う。このような場合に首尾一貫して異なった動詞を用いるような言語を、われわれは考えることができよう。また、同様にして、われわれが<信ずる>、<望む>等について語るところでは、一つ以上の動詞を。このような言語の諸概念は、われわれの言語の諸概念よりも、心理の理解にとっておそらく一層適切なものなのであろう。(PI577 藤本訳)

 多くの場合「記述」と「表出」は対立的に捉えられているが、別の時には、体験内容の「記述」も「表出」に含めて捉えられている。次を参照。

 もし私が、心理学が関わるべき、われわれの<表出>は、断じて、すべてが体験内容の記述であるわけではない、と主張しようとするなら、人が体験内容の記述と呼ぶものは、かの’反論の余地なき’表出のうちのある小グループであるに過ぎない、とも言わねばならない。だがこのグループはどのような文法的特徴によって特徴づけられるのだろうか?(RPPⅠ693)

 「叫び」と「記述」(あるいは「報告」)という対立について。ここでも、その差異は明確に定義されてはいない。

 「<私は・・・を望んでいる>ーというのは私の心の状態の描写である。」これはあたかも私が自分の心を眺めてそれを(ちょうど人が風景を描写するように)描写したかのように聞こえる。いま私が「私はいまなお彼が私のところに来ることを望んでいる」というとすればーこれは希望を表す振舞いであろうか。それが希望を表す振舞いでないのは、「私はあのとき彼が来ることを望んでいた」という言葉が希望を表す振舞いでないのと同様ではあるまいか。-したがって私は「望む」という動詞の現在形には二種類あるというべきではないか。その一つはいわば叫びAusrufであり、もう一つは報告である、と。(RPPⅠ460 佐藤訳)

「私は君に、自分の心的状態を記述したかったのだ。」-たとえば「私はただ自分の気持ちを吐き出したかっただけだ」とは違って。つまり私は、「自分がどういう気分でいるか」を彼に知ってほしかったのだ。(この文脈では、人はしばしば状態の持続について語る。)(LPPⅠ32 古田徹也訳)

 最後の引用で、「状態の持続」が話題にされていることにに注意しておこう。

2.

一般的に言って、「記述」には、正誤(真偽)の可能性がある。それに対し、(たとえば)痛みの「叫び」について、正誤を問うことはナンセンスに思われる。それでは、「叫び」と「記述」を分けるものは、正誤の可能性なのだろうか?

自分の心理に関する言表の中には、「私は彼女を愛している」のように、話者自身が、「それは真実だろうか?」と問い直すことが可能なものがある。

 「自分がそれを信じていることをを、あなたは何によって知るのか」と問うことにいみがあるか?-そして、その答えは「わたくしはそのことを内省によって知る」ということなのか?
いくつかの場合にはそのようなことを言うことができるだろうが、多くの場合にはそうではない。
「わたくしは彼女を実際に愛しているのか、わたくしは自分をごまかしているだけではないのか」と問うことにはいみがあり、その内省の経過は記憶を呼び覚ますことである。可能な諸状況の表象や、・・・なるときにひとが抱くであろう感じの表象を。(PI587 藤本隆志訳)

 「君は彼女を愛していないのではないか?」というような、他者による、観察からする指摘が、本人の自己認知以上に正鵠を射ている場合もある。
「私は彼女を愛している!」が「叫び」であろうとなかろうと、その内容の「真理性」について問い返されることが可能である。
(PPF126でも、叫びへの正当化が語られていた。)

 わたくしはかくかくのことを考えていた、という告白の真理性Wahrheitについての基準は、ある出来事の真なる記述についての基準ではない。そして、真なる告白の重要さは、それが何らかの出来事を確実に正しく再現しているということのうちにあるのではない。それはむしろ、その真理性が真実[誠実]Wahrhaftigkeitについての特別な基準によって保証されている告白から引き出してこれるような、特殊な諸帰結のうちにあるのである。(PPF319 藤本訳)

 ゆえに、「叫び」と「記述」は、決して真偽が問われる可能性の点のみで区別されるのではないだろう。

3.

「表出」「叫び」と「記述」の区別、それらの間の移行、決定不能性は、「心理学の哲学」における重要なテーマである。しかし、先ずそれぞれの概念を明解な定義へともたらすことからして難しい。
結局、ウィトゲンシュタインが見出すのは、典型的な「表出」(痛みのうめき声等)から典型的な「記述」の例に至る、区分のぼやけたスペクトルである。

 叫びSchreiは記述ではない。だが、両者の間に移行はある。そして「私は恐ろしい」という言葉は、ある叫びに近かったり、遠かったりしうる。それは叫び声に全く隣接していることもあれば、それから全く疎遠であることもある。(PPF83)

 それでもなお、彼は次のように問おうとする。

 人が心的状態を記述するために必要なのは何か。-あるいは、人が心的状態を記述しようとするために必要なのは何か、と私は問うことができるだろうか。(LPPⅠ 30 古田徹也訳)

人はまた、「自分の心的状態を記述するとき、私にとって何が重要でなければならないのか」と問うこともできるだろう。(LPPⅠ31 古田訳)

 ウィトゲンシュタインは、「表出」と「記述」の区別を、機能と目的の違いから捉えようとする。

 「私は恐ろしい!」という恐れの表明と、「私は恐ろしい」という恐れの報告との間にある目的の違い。(RPPⅡ735 野家啓一訳)

 この観点からすると、「表出」と「記述」の区別は、表明そのものや、表明時の話者の体験において決定されるのではなく、コンテクスト、環境の差の要因が大きいものとなる。

 私の心の状態(例えば、恐れ)を記述すること、それを私はある特定のコンテクストにおいて行う。(ちょうど、ある特定の行為が実験であるのは、ある特定のコンテクストにおいてであるように。)(PPF79)

また、あるときに「表出」であったものが、別の時には、過去の状態の「記述」としての機能を果たすことがありえる。

「私は・・・を意図している」という発言は決して記述ではない。しかし一定の状況では、そこから、ある記述を引き出すことができる。(RPPⅠ599)

だが、問題はこうだ:記述とは呼ぶことのできない、どんな記述よりも原始的な叫びが、それでもなお、心的生活の記述の役割をするのだ。(PPF82)

 4.

ところで、以上のような視点からみると、現実の言語使用は、どちらとも決定困難であったり、表出と記述が組み合わされていたりする。

 しかし私が誰かに向かって、「私は彼がわれわれの集まりに来てくれることを強く望んでいる」というとき、-相手は私に「今言ったことは何だったのか。報告なのか、それとも叫びAusrufなのか」と問うであろうか。(RPP 1 461 佐藤訳)

 日常的な会話も、このような視点で改めて見直すと、にわかにキマイラのような相貌を帯びてくる。だが、それが言語使用の現実なのである。

 ところで、私が彼に「私は終日を恐怖の中に過ごし、(おそらく詳細な内容が続くだろう)・・・今はまた不安でいっぱいだ。」と言ったとすれば、われわれはこの報告と表明Äußerungとの混合物についていったい何と言ったらよいのか。-われわれはここで「恐怖」という語の使用を間近に見ているのだということ以外、いったい何と言ったらよいのか。(RPPⅡ156 野家訳)