能動詞と所動詞

1.

前回、第四種動詞が文末でル形で使用されている例を引用して、いずれも「書きことば」であって、具体的他者を前にした発話ではないことに注意を促した( 1. のc.)。元々、当ブログが第四種動詞の話題に入っていったのは、これらの例にも示されている、「テイル形とテクストの性格との関係」という問題に立ち入るためであった。だが、いつものように、入り口に向かう前に、関連する諸々の話題に目を塞がれる恰好になっている。

ただ、その中で、今後も議論に絡んでくる基本的な問題については、簡単にでも先に確認しておいたほうが良いだろう。

例えば、前回、第四種動詞の特徴として挙げた、非意図的な変化を表すものの多さ( 4.のA.)、である。

言語学では、動作動詞dynamic verb の自動詞について、意図的(あるいは意志的)な動き(過程)を表すか、非意図的(非意志的)な動きを表すか、という区別が重要視される。非能格動詞unergative verb/非対格動詞unaccusative verb という区分がそれに相応する。ただし、この区分は、直接、意志的/非意志的という意味的な類別から得られたものではない。元来は、自動詞というカテゴリー内でのシンタクティカルな振舞いの差異をもとに引き出されたものであり、その背後には、自動詞文の主語が示す主題役割(θ-role)の違いがある。

同様の区別は、日本語学でも、三上章らによって注意されてきた。

ここでは、日本語学での議論について少し見ておきたい。それは、当ブログが英語圏を中心とした言語学の議論に疎いからでもあるし、第四種動詞自体、日本語における問題だからでもある。

さらに、この話題の背後には、日本語における態voice や動詞の自他対応といった諸問題が広がっているからでもある。

そしてそれらの問題は、<変化動詞/動作動詞>という、日本語の語彙的アスペクトにおける基本的な対立とも関連していることを確認しておきたい。

ただ、例によって、全般的なまとめにはならず、あくまでも当ブログの関心という、極狭い角度からの切り取りになる。

 

2.

早くからこの問題に注目して、独自の動詞分類を提示していたのが、三上章である。以下、用語は少し変えながらまとめておく。(cf. 三上『現代語法序説』p98~)

三上は、まず、動詞一般について、受動態(受け身)をとるもの、とらないもの、に分ける。そして、受動態をさらに、直接的、間接的、に分け、それらが可能であるかどうかで、さらに動詞を分類する。(三上は、直接受身を「まともな受け身」、間接受身を「はた迷惑の受け身」と呼んでいる。後者は、「せっかくの休日だったが、雨に降られた」のような例。)

以上から、三上は、受動態をとらないものを「所動詞」、受動態が可能なものを「能動詞」と呼ぶ(p104)。

能動詞の内、直接受身、間接受身、ともに可能なものが、他動詞である。、間接受身のみ可能な能動詞と、所動詞を併せたものが、一般に言う「自動詞」となる。

三上によれば、能動‐所動の対立は、

ミヅカラー有情ー動的ーactive

オノヅカラー非情ー静的ーinactive

という対照をなす。(p106)

三上が、有情ー非情について言っていることが大変興味深いので、引用しておく。

有情者は簡単に言えば人格的存在だが、少し丁寧に言えば「履歴を背負った(或いは背負わされた)存在」である。非情物は「二十の扉」の鉱物や植物や加工された動物や人体の部分なのだが、人格的存在でも履歴を無視すれば、されゝば、非情物扱いになる。履歴を無視することすなわち非情視することである。(p106)

三上が、「所動詞」という名称を選んだ理由の一つは、それが場に関係が深いからだ、という。

所動詞は必ず所に基くとは言えないが、所動詞には位格を要求するものが多い。

 坊ヤニモウ三輪車ガ要リマス

のように位格を先頭に立てるのが多い。(p107)

位格locative case と所動詞のつながりに関連して、(前回の4.B. で見たように)第四種動詞に位置関係を表わすものが多いことが思い出されるが、今は立ち入らない。

三上は、この分類を基に、能動詞の文の主格(「能格主格」)と所動詞の文の主格(「所格主格」)とを区別し、振舞いの違いに注意している。例えば、<主格+動詞連用中止形>型の複合語を、能動詞型の自動詞は形成しないが、所動詞には形成可能である(例「日照り」「雨降り」)、等。(P111)

生成文法では、この2つの主格の違いは、文の基底構造における項構造argument structureの違いとして説明される(非対格仮説Unaccusative Hypothesis)が、これに関しても、これ以上立ち入らない。(cf. 大津由紀雄他『言語研究の世界』p179)

 

3.

三上は、上に挙げたように、能動詞型自動詞と所動詞の違いを

<みづから然する/おのづから然る>の違いに対応するものとしている(p105)。

これを、前者は意志的(意図的)な過程、後者は非意志的な過程を表わすものと解釈することが可能だろう。だが、三上において、能動詞/所動詞の区別は元々、どのような受動態をとり得るか、というシンタクティカルな規準に基づいていた。その、受動態を取り得るか否かの境界は、意志的/非意志的過程の境界と綺麗に重なるわけではない。

例えば、先に挙げた間接受身の例「…雨に降られた」を考えて見ればよい。「雨が降る」ことは、意志的な過程ではないが、間接受身をとることが可能である。ところが、「雨が止む」の場合、受動態「雨に止まれた」は不自然であり、使用されることはない。ここでは、非意志的な動詞が、受動態をとったりとらなかったりすることが示されている。

(※寺村秀夫は、「(雨が)降る」は所動詞に類するものであって、「雨に降られた」は例外的な現象と見る考えを示している(『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』p248))。

また、受動態をとらない動詞が、すべて<自ずから然るもの>というわけでもない。「戸が閉まる」は普通、受動態にならない(「ようやく博物館に着いたものの、すでに戸に閉まられていた」とは言わない)が、戸は普通、自ずから閉まるわけではあるまい。

(「閉まる」は、「閉める」と対をなす。すなわち、自他の対応をなす動詞の一例であり、日本語には、このような動詞の対が数多く存在する。)

さらに、一つの動詞が意志的な過程を表したり、非意志的な過程を表したりすることも普通にある。例えば、「動く」について。

(治療している最中、患者が勝手に動いた。)

治療している最中に、患者に動かれてしまってね。大変なことになった。

(地震で、大石が動いた。)

地震の際、自宅の裏の大石に動かれてね。大変なことになった。

このように、能動詞/所動詞の規定仕方と直接/間接受身との関係については、簡単に整理できないことが多い。様々な具体例を吟味して見なければその実態を掴むことはできないが、今立ち入る余裕はない。能動詞的自動詞/所動詞と非能格/非対格動詞との異同についても同様である。ここでは基本的な概念の確認で満足し、さらに態voiceと(動詞の)自他対応について見ておこう。