「説明」の周辺(27):「意味の体験」と「熟知性」

 1.

「私には、‘シューベルト’という名は、シューベルトの作品と彼の顔にぴったりしているかのように思われる」(PPF270)という現象 、あるいはそのような言表― それが、ウィトゲンシュタインにとって、なぜ、どのように、問題となるのか。

 

後期ウィトゲンシュタインのテクストを読んでゆけば、“passen”(ぴったり合う、適合する)という言葉に関わる探究が、主に『文法Ⅰ』、『茶色本』、『探究Ⅰ』、(「心理学の哲学」関係の諸稿を経て)『探究Ⅱ』という流れで、重要なテーマとして続いていることに気づく。

そして、それが「熟知性」の探究と密接な関係にあることにも。

熟知性Wohlbekanntheitということに関し、対象が容器にぴったり合うPassenこととして語る場合、それはかならずしも、現に見ているものを写像くらべるというようなことなのではない。(PGⅠ130、山本信訳)

シューベルトの名前」の例は、晩年にまで持続された、この探究の線の一末端に他ならない。

 

2.

この探究の線は、「言語一般が有意味であるための条件」という『論考』の主題の問い返し と表裏をなしている。

 

例えば「はにわ」という文字を目にする時、私の体験は、日本語の文字と発音について学んだばかりの日本語学習者とは異なっている、と考えたくなる。

あるいは、「向こうの部屋に、はにわが展示してあるよ」と、博物館で友人に言う際、私の体験は、授業で「はにわ」と発音させられている初心者とは異なっている、と。

このようにして、「ある言葉が有意味なものとして私に現れる」、とは、私がその言葉とともにある特有の体験をすることにほかならない、と考えたくなる。

その特有の体験は、ある「熟知」の状態に類比されたり、一つの「熟知」の状態の獲得と見なされたりする、かもしれない。

(「読むこと」と「熟知」の関係についての考察、PI 166-7を参照。)

さらに、その体験の内容は、「感じGefühl」、「感覚Empfindung」、に類するものであるように思えたりする。

 

「はにわ」のような個別の語を離れて、このアイデアを、言語全般へと拡張したくなる。

「今ではこの記号系列は私にあることを語る。かって私がその言語を学ぶ以前には、それは私に何も語らなかった。」われわれがこう言うのは、その文が今ではある一定の体験Erlebnisをもって読まれるということだ、と想定してみようか。(PGⅠ121, 山本信訳)

この文脈でこの文を発することは、我々にとって自然なことだ。そしてそれを文脈から切り離して言うのは不自然なことだ。我々にとって自然な仕方で発せられた文に常に伴っている特定の感覚ein bestimmtes Gefühlというものが存在する、我々はこう言うべきなのか?(PI 595、鬼界彰夫訳)

「ある記号列が意味のある言葉として私に立ち現れる」のは、私がある特定の体験、感じGefühlをもつ限りでである、とする考え。

だが、そのような「意味の体験」ないし「有意味な感じ」が、実際の使用の現場で常に見出されるだろうか?

 

『探究Ⅰ』§156以下の諸節では、特に「読む」という行為に限定して、そのような考えについて検討がされている。

それでもやはり、読むというのはまったく特定の過程ein ganz bestimmter Vorgangだ、―と我々は言いたくなる。印刷されたページを読めばそれはわかる。そこでは特有の何かが、極めて特徴的なことが起こっているのだ。―それなら、印刷物を読むとき起こっていることとは何なのか?(PI 165、鬼界訳)

―それでは読む体験に特徴的なこととはどんなものなのだ?―それについて私は、「私が発音する言葉は特別の仕方でやってくるkommen」と言いたい。つまり、思いつきで言う場合とは違った仕方でそれらの言葉はやってくるのだ。(PI 165、鬼界訳)

§165の枠内の文章や§606で、「まったく特定の雰囲気 eine ganz bestimmte Atmosphäre」「まったく特定の表情 ein ganz bestimmter Ausdruck」という表現について言及されていることにも注意しておこう。「やってくるkommen」については、『探究Ⅱ』296の他、『茶色本』第Ⅱ部でも言葉が「やってくる、浮かんでくるcome」という言い方がされている(BBB,p159)ことに注意。

さまざまなテクストを通じて問いかけが続いている。

 

「熟知性」への問いは、そのような、言語の「意味の体験」に関する探究と交差する(『文法』Ⅰ部を参照。)。もちろん、「熟知性」は、言葉に関する体験には限定されない。

ある時期、ウィトゲンシュタインは、「あるものを命題として認知する」とはいかなることか、という問いに関心を持った(そのあるものが、自分にとって全く見慣れないものの場合も含まれる)。また、あるものを ー例えば、そこに書かれたものをー 、(内容が理解されるされないに関係なく)言語として認知するとはいかなることか、という問いに。『茶色本』第Ⅱ部は、そのような問いに関わっている。(Rush Rees, PREFACE to BBB,xii)

 その『茶色本』第Ⅱ部は、「熟知性familiarity」への問いから始まる。

 我々が 馴染みのある事物を見るとき、常に親しさの感じ a feeling of familiarity が起こるであろうか?

それとも、通常は起こる、という程度だろうか?

実際にその感じが起こるのは、どういった時であろうか?

(BBB, p127)

 3.

ウィトゲンシュタインは、先のような考えを否定する。つまり、言語を有意味なものとして把握することの条件として、そのような体験をもちだすことを批判する。

語の意味Bedeutungとは、それを聞いたり、発したりする際の体験Erlebnisではない、そして文の意味Sinnとは、そうした体験の複合物ではない。(PPF37, 鬼界訳)

cf. PPF15, 16, PGⅠ-121

 彼が「語の意味の体験」や「熟知」について探求するのは、むしろ「言語の有意味性の条件」に関する哲学的混乱の治療のためである。

上のReesの文章は次のように続く(意訳)。

そして、『茶色本』第Ⅱ部は、そのような「認知」を正しくとらえるなら、哲学者が問うてきたような種類の問いには導かれないことを示そうとしている。彼は、文の理解を、例えば、音楽のテーマの理解に類比する。あるいは、この文は何ごとかを意味していると言いたくなることを、この色模様は何かを語っていると言いたくなること、に類比する。

それらの類比は、次の2つのことをはっきりと教える:理解するとは (明瞭に捉えられるような)一般的特徴を認知しているといったことではない。文が一体何を意味しているのか答えられないとしてもおかしくはないのは、色模様が何を語るのか問うことが意味をなさない場合があるのと同様である。(ibid.,  xii-xii)

 

4.

『論考』では、「言語一般の有意味性の条件」を現実に規定し、それを基に、哲学的混乱を裁断しようとする。

後期の思索では、「言語一般の有意味性」を基づける(ようにみえる)「体験」「熟知」の解明を通じて、それらに関する誤解が哲学的混乱を招くことを示そうとする。

 

「言語一般の有意味性の条件の解明」というテーマが、後期における「心理学の哲学」「アスペクト論」の方向へ、(姿勢の転換を伴いながら)差し向けられる様子 ― それはこの「熟知性」を中心とした探究の中によく現れているように思われる。

われわれは記号や対象の意味を即座に理解する。そしてこの端的な「画像把握」Bild-Auffassung の内に、安んじてとどまる。直示的定義の問題との関連ですでに述べたように、それはわれわれが画像をもはや解釈できないからではない。われわれはただ、解釈しないのである。

すべての言語ゲームはこの「熟知性」Wohlbekanntheitを基盤として営まれ、意味の文法的記述もまたこれを最終の拠点としなければならぬであろう。とすれば、ヴィトゲンシュタインが『哲学的文法』で(PG Ⅰ-34, 37,115-21etc.)、この「熟知性」の考察に力を注いだのも当然であった。熟知性の体験を通して、彼は言語と経験の、あるいは言語と生活の、根本的な関係を究明しようとしたのである。これは、検証主義の意味論に対する批判を完成するためにも、回避することのできない課題であったはずだ。やがてこの探究の焦点として浮かび上がってきたのは、きわめて困難で複雑な問題であった。すなわち、物を端的に何かとして見る、言いかえれば、物が何かに見える( Sehen als, So-sehen)という体験の問題である(BB 155 ff., PUⅡxi)。(黒田亘、『経験と言語』p222-3)

 

4.

冒頭の問いに対して、ウィトゲンシュタインにおける、「意味の体験」と「熟知性」の考察の流れを解き明かしながら答えることは、準備も労力もスペースも必要となるので、ここでは困難である。

 

ただ、次のことを確認しよう。

「私には、‘シューベルト’という名は、シューベルトの作品と彼の顔にぴったりしているかのように思われる」のような発言を、ウィトゲンシュタインは、「病的pathologisch」反応と見なしていた。

我々は、「シューベルト」という名前が、その担い手やシューベルトの作品にぴったりと合うという関係に何ら立っていないことを、とてもよく知っている。そして、それでも我々は、ぴったりと合うという風に表現しausdrückenたくなる衝動に駆られるのである。(LPPⅠ69、古田徹也訳)

「・・・という名前は・・・にぴったり合う」という文は、我々がそれを使用する場合がそうであるように、名前やその担い手について何かを伝達するものではない。その文は、伝達者にまつわる精神病理学的なpathologische伝達なのである。(LPPⅠ73、古田訳 )

これは言葉の「表情」に関する発言の例だが、言葉に限らず、何かの「表情」について、同様に、「病的」な発言というものが考えられる。

 そこで、「表情」一般に返って、「表情」について語ることが孕む問題について見てゆきたい。