「説明」の周辺(18):「表情的同一性」

1.

 ウィトゲンシュタインは、表情の「一瞥性」を、別の角度から、「表情(表現)的同一性 equality of expression」の問題としても捉えている。

私が紙に鉛筆でなぐり書きし、「これは誰だ?」と尋ねると、「ナポレオンだ」という返事が来る。しかし、我々は、この線描きを「ナポレオン」と呼ぶことなど、習ってはいないのだ。
この現象は、天秤で重さを量る現象に似ている。
私は、一方でのなぐり描きと、他方での正確に描かれた人物像とを簡単に区別できる。その意味では、「これとあれとが同じだ」とは誰も言わないだろう。

しかし、他方で、「これはナポレオンだ」と我々は言う。ある特異な[特定の?]天秤に掛けたら、我々は「これはあれと同じだ」と言うのだ。

別の天秤に掛けたときは、観客は容易に俳優の顔とロイド・ジョージの顔を区別するのだ。
誰もみな、「=」の使用を学んでいる。そして、突然に、それを特異な仕方で用いる。例えばこう言う:「これはロイド・ジョージだ」。

だが、別の意味ではそこに何の類似もない。

「表情的同一性 equality of expression」とでも呼べるような同一性。われわれは「同じもの the same」という言葉の使用を習っている。だが、そこに長さや重さ、あるいはそれに類した類似性が存在しないところでも突然に、自発的にautomatically、「同じもの」という言葉を使用する。

LCA p32)

※同一性equalityと同様に、類似性similarityについても同じことがいえるだろう。

つまり、ここで問題となっているのは、同一性ないし類似性の「突然の創出」、「瞬時的把握」、異なった同一性(類似性)の間での「転換」、という3つの相である。

ここでも、表情の問題と 知覚的アスペクトの問題との親近性は明らかである。

『探究Ⅱ』においても、アスペクトの閃き や転換(PPF118,129,131,etc.)というテーマだけでなく、アスペクトの一瞬の内の把握(すなわち一瞥性)という問題がくり返し現れる。(cf. PPF138,184-7)

 

2.

アスペクト知覚を表現するに当たって、「AをBとして見る」という形式と、「AとBに類似を見る」「AとBを同じものとして見る」という形式とが 相互に転換可能である ことはすぐにわかる。したがって、アスペクト知覚を、類比や同一化に関わる出来事としてとらえることも可能である。(表情の看取についても同様の視点が可能だろう。)

(当ブログの底部に一貫して「類比」という主題が流れていたことを再確認する。)

ウィトゲンシュタインは、上の引用に見るように、しばしば、「同一」「類似」という言葉の使用の改変という視点から、この問題を「2つの使用」の問題と絡めて語った。それについては『数学の基礎講義』第Ⅵ講義を参照のこと。数学の証明に関する問題との関連も、そこで詳しく取り上げられている。

 

3.

一瞥性は、「情緒、感情 Gemütsbewegung」という概念においても重要である。

情緒や感情は、多くは表情や言葉の内容、声色、身振りによって知られる。

「人は情緒Gemütsbewegungを見る」—これは何と対比されているのか― 人はゆがんだ顔を見て、それから彼は喜びや悲しみや退屈を感じていると推論するわけではない。たとえその容貌に他の何らかの記述を与えることができない場合でも、人は彼の顔を悲しげな、喜びに輝いた、退屈しきったものとして直接に記述するのである。―悲しみは顔の中に擬人化personifiziertされている、と言いたくなる。このことは、われわれが<情緒>と呼ぶものにとって本質的なことなのである。(RPPⅡ570, 野家啓一訳)

※ここでは触れないが、ウィトゲンシュタインのテクストにおける、感情、心情、情緒、気分、などと訳されるドイツ語、Gefühl, Gemütsbewegung, Stimmung等の使い分けの実態は、検討されなければならない問題である。

 

以前少し触れたが、模倣という現象に注目したにも関わらず、ウィトゲンシュタインは、「他者の情緒や感情は、表情の模倣行為を通じて認識される」という説明のためのモデルに対しては(結局のところ)批判的であった。『探究Ⅱ』PPF231,『心理学の哲学Ⅰ』927,929(Z220-1)を参照のこと。情緒や感情は直接的に看取される、という事実が強調される。

 

 4.

最初の引用に見るように、ウィトゲンシュタインは、表情的同一性について、突然の出現、という性格を強調する。しかし、当たり前だが、人間として生まれ育っていった者が、突然、皆同じように一致した判断を下すようになるわけではない。判断する主体の何らかの前史や環境がその出現に影響する。

ある三角形は、ある絵画の中で現実に立っていることができるし、別の絵画の中では吊るされていることができる。さらに別の絵画では転倒した何かを表すことができる。―しかも、絵画を見る私は「これは転倒したものを表すことも可能」とは言わず、「グラスが倒れて粉々になっている」と言う。こうした像に対して、我々はそのように反応する。

こうしたことを引き起こすためには像はどのようなものでなければならないかを、私は述べられるだろうか。いや。例えば、私にはこのように直接的には伝わらないが、他の人には伝わる描き方がある。ここでは慣習と教育が影響するのだと私は信じる。(PPF167-8)

問うてみよ:人はどのようにして、何かに対する「眼力Blick」を持つことを習うのか?そして、こうした眼力はどう使われているのか?(PPF361)

 まさしく、慣習や文化がここで関わってくる。(cf. RPPⅡ468, Z164)