「説明」の周辺(25):一瞬の理解

1.

表情の想起や理解が一瞬で行われることについて、ウィトゲンシュタインは、「すべての哲学にとって法外に重要」と評していた(LCA, p31)。そのことをきっかけに、「一瞥性」の問題への手掛かりを、ここまで様々な所に探ってきた。

 

振り返ると、『探究Ⅰ』の中で、しばしば言葉や数列の理解が瞬時に行われる、という事実(すなわち、ここで言う「一瞥性」)と 「言葉の意味はその使用である」という有名な指針とが整合しないように見える、という問題が提起されていた(PI 138)。

続く考察において、瞬時的理解の際にしばしば思い浮かぶ「像」と 適用との不適合の可能性、さらに瞬時的理解の体験と 適用による正当化の関係、について論じられる(PI 139-155)。

その後の展開においては、「読む」という概念、「規則に従う」という概念、「私的言語論」等のテーマが次々と繰り出され、瞬時的理解の問題は一旦それらに隠されてしまうかのようである。

 

「読む」の考察へ移行する途中、ウィトゲンシュタインは「だが一度、理解を<心的な出来事seelischen Vorgang>とは考えないようにしてみよ!-なぜなら、それこそが君を混乱させている言い回しなのだから。」と勧める(PI 154)。

その理由は決して明瞭ではないが、一つには次のようなことがあるだろう。

「一瞬の理解」は、あたかも無限の適用例を瞬時に決定してしまうかのように、「遠くまで及ぶ」性格を持つ。

「理解」を「心的過程 seelischer Vorgang 」と考えるならば、このことが、「一瞬の理解」の、極く短い期間の有限的な出来事Vorgang という性格と矛盾するように見える。

(cf. PI 187-8,  191,  195)

ウィトゲンシュタインが、そこに心的過程が存在することを否定しているわけではないことにも注意。「想起」の例になるが、PI 305-6を参照。)

 

瞬時的理解の問題が再び表面に現れるのは、§318辺りである。「痛み」や「考える」という概念を自らの体験の内省によって解明しようとする姿勢 への批判(PI 314, 316)と一緒に、テクストに織り込まれている。

「人間が突然理解するとき、何が起こっているのか?」-これはまずい問いの立て方だ。もしこれが「突然理解する」という表現の意味を問う問いなら、我々がそのように呼ぶ過程を指し示しても答えにはならない。(PI 321 鬼界彰夫訳)

(以上のような、『探究Ⅰ』の構成の意味についても、よく考えてみる必要があるが、今は立ち入らない。)

 

2.

以上のような展開における、§138の問題に対するウィトゲンシュタインの回答を、『探究Ⅰ』というテクストからはっきりと取り出すことは難しい。

 

ざっと目に入る、関連する論点は次のようなものだ。

a. 問題となっている、「理解」が登場する言語ゲームの性格は、出来事を記述する言語ゲームとは異なっている。(cf. PI 195-6, )

b. 「理解」は多様な概念である。また、理解と無理解の境界も、必ずしも明確なものではない。(cf. PI 138boxed remark, 513, 525~)

c. 「慣習」の成立(制度、技術)の重要性。(cf. PI 197-9 )

 

それぞれについて解明することは簡単ではない。だが、全体に関する手掛かりは、他にもある。

『探究Ⅰ』§138に先立って、関連した問いが1934年の講義でくり返し取り上げられていたことに注意したい(cf. 『1932-35講義』WLC1932-35, p77~、訳書p192~)。

そこでは、「一般観念  general idea」を持つことが「理解」を可能にする、という説の問題点が検討され、「理解」をめぐる哲学的な混乱の解明が目指される。

その中に、時間様態をめぐる問題も提起されている。

一般観念、あるいは言葉の理解を、われわれは、特定の時間、たとえばその言葉が理解された時刻に、現前する何かとみなしたがる。他方、われわれが獲得した観念は、時間の経過の内に作用し結果を生み出すものとみなされる。以上のことが、一般観念という概念や語の理解につきまとう主要な困難の一つだ。(WLC1932-35, p84-5)

『1932-35講義』を共に読むことは、『探究Ⅰ』の理解にとって非常に有益と思われる。

 

ただし、そのように「理解」をめぐる問題に詳しく立ち入ることはまた別の機会とし、「表情の理解」と「言葉の理解」との類比について見てゆきたい。