「説明」の周辺(22):「一瞥」と「熟知」

1.

 前回の、関数の比喩を用いた考察で、表情を認知することを、ある表情をある関数の値として見ること、に喩えた。そこでは、表情からある関数が推測される、という風には描出しなかった。それはもちろん、表情が一瞥で見て取られることを表現するためである。「一瞥」の中には「推論」が存在しない建前だからである。

しかし、それでも、表情認知は 単なるその時点における「受動的反応」ではなく、別の時点における事象について察する行為である。

それを「予測」の行為に喩えることができよう。(ここで「予測」は、過去の事象に対する場合を含む。また、予想される「時点」は、必ずしも「客観的時刻」ではない。さらに、「時点」ではなく、「期間」が対象となる場合もある。)

その予測のためのデータが、「一瞥」のように、極めて短い時間で取得されること、データの質が「像」(のようなもの)であること、「像」として記憶や再現が瞬時に可能であること、「像」が情動の「像」として、情動を介して行為・態度につながっており、その予測を可能としていること、などがこの現象の特徴である。

前回、ウィトゲンシュタインにおける「経過Verlauf」という言葉の周辺から、そのような含みを引き出そうとした。

 

「予測」を脳の主軸的機能に据える見方は、近年の脳科学が主張するところでもある。(もっとも、不勉強により、それについて何も語れることはないのだが。)

予想脳とは、次に生ずる未来を常に予想して、絶えず流入してくる自動処理された外界環境情報と自己が予想した未来とを比較することが、脳の本質的な機能である、という考えである。(藤井直敬、『予想脳』3章)

 

脳はつねに予測している。そのもっとも重要な役割は、身体のエネルギー需要を予測して無事に生存し続けられるようにすることだ。またそうした不可欠の予測と、それに関連する予測エラーは、情動の生成における重要な構成要素だと判明している。(リサ・フェルドマン・バレット、『情動はこうしてつくられる』、高橋洋訳、p117)

 

2. 

以前、ウィトゲンシュタイン「直接的洞察」という言葉を拡大解釈して、彼がよく取り上げる判断行為の特徴を言い表す言葉として扱うことを試みた。

「直接的洞察」とは、「推論なき判断」である、と言うことが出来よう。

その意味で、表情の一瞥的認知も、「直接的洞察」である、と言いたい。

 

だが、「一瞥性」は「直接的洞察」の徴表である、と逆に主張することはできない。

 自分の感情の認知(LPPⅠ39,PPF5)や町の方角の思いこみ(PI 268)といった「直接的洞察」の例には、認知が成立した特定の「一瞥の瞬間」は存在しない。

 

3.

 同様に、一瞥性は、表情に対する反応すべての徴表ではないし、無論、美学的反応すべての徴表でもない。

例えば、作者の生涯について詳しく知るにつれて、徐々に作品の印象が変わってくることはよくあるけれども、これが「一瞥」のもたらしたものでないことは明らかだろう。

あるいは、次のことを考えてみよう。

美学的印象は、「表情」のみならず、「(・・・の)感じ」「(・・・といった)雰囲気」等の言葉でも表されるが、それらの言葉は、感覚に似た、持続の相を暗に示していないだろうか。その持続の相は、「一瞥」という言葉のみでは汲み取れないのではないか。

 

ウィトゲンシュタインが度々取り上げた、「熟知(Wohl)Bekanntheit」(PGⅠ115~, BBB,p127~,PI 596)も、表情への反応や美学的反応のあり方だと言えるだろう。

熟知Wohlbekanntheitとは、私がその眺めAnblickの中で安らいでいるということに他ならない。(PGⅠ115)

容易に気付かれるように、「一瞥」と「熟知」の関係は、アスペクトの「閃きAufleuchten」と「恒常的な見えstetige Sehen」との関係(cf.PPF118)に似ている。

 

『文法』の時期、すでに、「熟知」は「アスペクト」という言葉を用いて記述されていたことを確認しよう。

熟知Wohlbekanntseinの多様性とは、私の理解する限りでは、ある眺めの中で安らいでいる、ということの多様性である。それは、次のようなことの内に成り立っているだろう。私のまなざしは、対象のうえをあちこちと(探りながら)落ち着きなくさまようことがない。私は事象のアスペクトを変えない。すなわち、ただちに一つのアスペクトを掴み、しっかり保持する。(PGⅠ116)

 熟知の中に「ただちに掴む」という「一瞥」の要素が存在していることもまた述べられている。

 

4.

他方、 「熟知」は「驚き」と対比させられていた(cf. BBB,p127)。「一瞥」にも「驚き」を伴ったもの、そうでないものが区別できよう。前者を「閃き」と表現することが出来る。美学的反応を「閃き」の比喩で語ることもよくある行為だが、これについてウィトゲンシュタインはどう見ていたか。