類比の運動

1.

「差異」と対をなすものは「同一」あるいは「類似」であろう。ウィトゲンシュタインのテクストに登場する、それらに関連の深い言葉(概念)について整理しておこう。

まず、ひとは、2つのものを類比させることによって、類似を認識する。それゆえ、2つのものを結び、類似を浮かび上がらせる行為として、「類比」が重要である。同様の行為を表す言葉に、「比較」がある。
また、「類似している」と「同じである」という概念同士の「類似」は明らかであろう。
読み進む際に、「類比」Analogie, 「類似」Ähnlichkeit,Verwandtschaft、「比較」Vergleich、「同一」Gleichheit、「一致」Uebereinstimmung、さらに「比喩」Gleichnisといった概念に注意してゆこう。

2.

さて、類比Analogie, 類似Ähnlichkeit,Verwandtschaft,比較Vergleichは、後期ウィトゲンシュタインのテクストにおいて根源的に重要な役割を果たしている。これらはテクストにおける主役である、といってもよく、概観することが困難な程、多様な場面において登場する。

まず、よく知られるように、ウィトゲンシュタインが言語を総体として捉えようとするとき、言語は「類似Ähnlichkeit,Verwandtschaft」(「家族的類似Familienähnlichkeit」)という観点の下で眺められた。

 われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、-これらの現象は互いに多くの異なったしかたで類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性Verwandtschaftないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ。(PI65 藤本隆志訳)

われわれは、互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性Ähnlichkeitの網目を見、大まかな類似性やこまかな類似性を見ているのである、と。(PI66 藤本訳)

3.

 他方、類比、比較は哲学的混乱の生みの親である。

 我々を引きずってゆく抵抗しがたい類比analogyによって、我々は困惑のなかに引き込まれるのだと言えよう。(BBB p108)

 たとえば、次のような例を見てみよう。

 さて、私が、読んでいる間中ある一定の経験がずっと続いているのに、その経験をある意味で把握することができないと感じる場合、この困難は、この場合を、自らの経験の一部が他の部分に随伴すると言いうる例に誤って比較することから生じる。(BBB p169)

想起することは体験としての内容を持たない。(・・・)私は想起することの内容という観念を、心理的概念同士の比較Vergleichenを通してのみ保持する。それは2つのゲームを比較することに似る。(サッカーにはゴールがあり、ドッジボールにはない。)(PPF369)

 我々を混乱させる「読むことに特有の経験」や「想起することの体験内容」という観念は、比較、あるいは類比から生じる。

 われわれの言語の形式の中に取り入れられている比喩(Gleichnis)が間違った外観を作り出し、そしてその外観がわれわれを不安にさせる(PI112)

だから、われわれの考察は文法的な考察である。そして、この考察は誤解を取り除くことによって、我々の問題の中へ光明をもたらすのである。すなわち、語の使用に関する誤解、とりわけ、われわれの言語の異なった領域に属する表現の諸形式の間の類比から呼び起こされる誤解 を取り除くことによって。(PI90)

 4.

だが、混乱が生まれるか否かに関わらず、類比による拡張は、われわれの言語活動におけるありふれた事実である。
われわれは、類比によって、ある言葉を、いわば比喩的な新しい意味で、使用する。
あるいは、あるものと別のものとが「同じ」である、と新たな状況において、「自ずから」判断する。

 私が紙に鉛筆でなぐり書きし、「これは誰だ?」と尋ねると、「ナポレオンだ」と返事が来る。我々は、この線描きを「ナポレオン」と呼ぶことなど習ったわけではないのに。
この現象は、天秤で重さを量る現象に似ている。
私は、一方でのなぐり描きと、他方での正確に描かれた人物像とを簡単に区別できる。一つの意味では、「これはあれと同じだ」とは誰も言うまい。しかし、他方で、「これはナポレオンだ」と我々は言う。ある特異な[特定の?]天秤に掛けたら、我々は「これはあれと同じだ」と言うのだ。別の天秤に掛けたときは、観客は容易に俳優の顔とロイド・ジョージの顔を区別するのだが。
すべての者が、=の使用を学んでいる。そして、突然に、それを特異な仕方で用いる。彼らは言う:「これはロイド・ジョージだ」、だが、別の意味ではそこに何の類似もない。「表現的な同一性」とでも呼ぶようなもの。われわれは「同じもの」という言葉の使用を習っている。だが、そこに長さや重さ、あるいはそれに類した種類の類似性が存在しないところでも、突然に、自ずから、「同じもの」という言葉を使用する。(LCA p32) cf.PPF335,RPPⅠ164

5.

 ウィトゲンシュタインは、数学における証明をも、この「類比」の運動として捉えている。これも非常に重要なポイントである。

 実際のところ、証明は類比によって一歩一歩進んでゆくのだ-範例の助けによって。ラッセルは、変換の規則を与え、それから変換を実行する。どんな証明も同様なのだ:君は他の人を一歩一歩導くのだ、それぞれのステップごとに、「そうだ、これも同じだね(This is the analogue here.)」と言うようになるように。(WLFMp62)

 証明および計算は、規則に従った歩みである。ウィトゲンシュタインは「規則に従う」実践自体を類比の運動として捉えていると言ってよい。「規則に従う」と「同じである」という概念同士の結びつきについては、この後確認することになるだろう。