私的言語論を平明に読むために2

1.
前回触れたように、これまで「私的言語論」に関する議論の中心となってきたのは『探究Ⅰ』258節の「感覚日記」であった。

 次のような場合を想像してみよう。私は、ある一定の感覚が繰り返し起こることについて日記をつけたいと思う。この目的のために、私はその感覚を"E"という記号に結び付け(assoziiere)、その感覚が起こった日にはカレンダーにこの記号を書き記す。-わたしはまず、この記号の定義を言い表すことができないことを指摘したい。-でも、自分自身に対してははある種の直示的定義をすることができるではないか!-どのようにして?私は感覚を指し示すことができるのか?ー普通の意味ではできない。でも、私は記号を言ったり、書いたりして、その際に自分の注意を感覚に集中するのだ。-そうやって、いわば、感覚を内面的に指し示すのだ。-でも、そういう儀式は何のためのものか?というのも、それは儀式にしか見えないのだ!定義とは、記号の意味を確定するのに役立つものをいうのだが?ーいや、だから、注意を集中することでそれを行うわけだ。そうすることで、自分の中に、記号と感覚との結びつきを刻み付けるのだ。ーしかし、「自分の中にそれを刻み付ける」とは、ただ次のことを意味する:この過程は、将来の私がその結びつきを正しく想起することを引き起こす。でも、このケースでは、私は正しさの規準を持ち合わせていないのだ。こう言いたくなるかもしれない:何であれ、私に正しいと見えるものが正しいのだ、と。でもそれは、この場合、「正しさ」については語れないことを意味するのみである。(PI258)

 まず、注意すべきは、この節の2つ前の256節で、

 しかし、もしわたくしに感覚の自然な表出がなく、感覚だけがあったとしたら、どうか。いまや、わたくしは単純に名と感覚とを結び付けassoziiere、それらの名を記述に用いるのである。- ( 藤本隆志訳)

 とあり、このような観念を批判するために、感覚日記が持ち出されていること、

さらに、前の引用部の前提として、

どのようにしてわたくしは自分の諸感覚Empfindungenを言葉によって表記しているのか。-日常行っているようにか。だとすると、わたくしの感覚語は、わたくしの自然な感覚表出と結びついてverknupftいるのか。-その場合には、わたくしの言語は<私的>でない。他人も、わたくしと同様、それを理解できよう。(PI256 藤本訳)

 と言われていること、

だから、そもそも、「感覚日記」は、「自然な感覚表出」から遮断されたものとして仮定されていること、

である。

2.

ところが、この「自然な感覚表出」とは、どのような範囲の事象を意味しているのか、明らかではない。

ただし、「単純に名と感覚とを結びつけ」(PI256)、「他人には理解できない」(PI243)、という特徴が成立するためには、「感覚日記」は、「自然な感覚表出」のみならず、他の様々な言語ゲームから隔離されていなければならないだろう。例えば、「私」による「E」の(意味の)説明(「Eはある感覚を表している」など)は、排除されていなければならないと思われる。
なぜなら、クリプキが明晰に述べているように、もし「感覚日記」をつける者が通常の感覚言語をすでにマスターした人間であれば、このようなその者自身による説明は、(状況にもよるが)「E」を感覚の記号として他者に了解させるのに十分なのである。

 しかし、もし彼が感覚言語一般をマスターしたと認められるに必要な諸規準を満足したとすれば、その時は我々は、ある新しいタイプの感覚を同定した、という彼の主張をーたとえその感覚には公的に観察可能なものは何も付随していないとしてもー尊重する、という事は、感覚に関する我々の言語ゲームの原初的部分なのである。(クリプキ、『ウィトゲンシュタインのパラドクス』、黒崎宏訳p202)

3.

以上の前提の上で、「感覚日記」をできるだけ平明に、無用の混乱を避けながら読むために、次のような方針を立ててみよう。

①「感覚日記」自体を、孤立した言語ゲームとして、(『探究Ⅰ』第2節の言語ゲームのような)「完結したプリミティブな言語」(PI 2)として見ること。

②「感覚日記」自体の成立と、
「感覚日記」に関する主張の成立、例えば「Eはある事象の名前である」「Eは、ある感覚を意味する」「感覚日記”E”は私的言語である」等の主張の成立を、 

区別して捉えること。

※ゆえに、記号「E」を書き付ける言語ゲームを「感覚日記」と名指すこと自体、この後の議論のためには混乱を招きやすい。「E-日記」とでも呼んだ方がよいかもしれないが、この場では慣例に従って「感覚日記」と呼ばれるままにしておく。

 

③「感覚日記」自体と 

記号「E」の(主体による、自身への)「直示的定義」(258節)を 

区別して捉えること。

④「感覚日記」に対して加えられる言語ゲーム上の拡張(270節など)について、付随的な議論とみなさずに、その意義を考えること。

これらの意味するところを、以下簡単に説明してゆきたい。

4.

258節以下において、、「E」とある感覚との結びつきの「正しさ」を正当化することは不可能(「わたしにとっていつも正しいと思われることが正しい」)であるとされる。そのことが「E」を「ある感覚の記号」と呼ぶことを困難にする、とも。
しかし、それは「E」を「無意味」にするのであろうか?
というのも、ウィトゲンシュタインは一方で、こう明確に述べているのである。

 「わたくしが<自分は痛みを感じている>と言っているときには、ともかくも自分自身の前ではvor mir selbst正当化されているのだ。」-どういうことなのか。「わたくしが<痛み>と呼んでいるものを他人が知りうるとしたら、他人は、わたくしがこの語を正しく適用していることを容認するだろう」ということなのか。
ある語を正当化することなく用いることは、それを不当に用いるということではない。(PI289 藤本訳)

 「E」を正当化なしに用いることが、「E」の使用という言語ゲーム自体(つまり「感覚日記」)を不当とするわけではないだろう。
奥雅博が指摘しているように、「感覚日記」は、一つの言語ゲームとして、想定可能である。

 ウィトゲンシュタインの反論について注意すべきことは、「私的で内的な注意の集中による記号「E」の直示的定義がそれ以後の基準を与える」という論点の批判であって、定義を述べることが出来ない故に記号「E」の使用は不当である、とは論じておらず、感覚日記は幻想であり儀式にすぎない、とも論じていないことである。即ち、ここでウィトゲンシュタインは感覚日記の可能性を否定してもいなければ、全ての記号に定義を与えるべきである、と主張してもいないのである。(奥雅博、『ウィトゲンシュタインと奥雅博の三十五年』p89)

 5.

「E」をある感覚の記号と呼ぶことに、どのような根拠があるのか。つまり、「感覚」というのは、われわれに共通の言語に含まれる語であって、わたくしだけに理解される言語の語ではない。それゆえ、この語の慣用は、すべての人が了解するような正当化を必要とする。(PI261、藤本訳)

 上の引用において、「この語」は、「感覚」を指しており、「E」を指示しているのではない。
正当化が必要なのは、
[『「Eは、ある感覚の記号である」という、「感覚日記」に関する主張』における「感覚」という語の使用] であって、
「感覚日記」における「E」の使用ではない。
(もちろん、「Eは、ある感覚の記号である」という主張を「言いっ放し」にして正当化しないことは可能だが、それではそもそもこの場の「議論」が成立しない。)

繰り返すが、設定において、「感覚日記」は日常の感覚が登場する通常の言語ゲームから隔離され、翻訳や説明などされないのでなければならない。そうでないと、「E」が「わたくしだけが理解できるような言語」(PI256)ではなく、他人に理解可能な言語になってしまう。
例えば、「E」と痛みの振る舞い等(cf.「感覚の自然な表出」PI256)との間に関連を設けてはいけない。また上で述べたように、他人から「Eとは何ですか?」と尋ねられて、日記をつけている当人が「感覚の一種です」と答えることを想定するのも駄目である。それでは、「E」が感覚の記号であるということが、日常的な規準によって正当化可能になってしまうから。(上のクリプキの引用を参照。「ある語が感覚の記号である」ことを正当化するのは、その感覚に特有の振る舞い(「感覚の自然な表出」)が存在し、それと語の結びつきが存在すること のみではないのである。)

「E」と、ある感覚との結びつきの「正しさ」が正当化できなくとも、「E」は使用可能である。ただ、その場合、「E」を「あるものの記号」または「感覚の記号」と呼ぶべきか否かは、258節の「感覚日記」の状況のみからは不明なのである。つまり、「Eは、ある感覚の記号である」という「感覚日記」に関する主張が正当化できないのだ。それは、「E」が通常の感覚語の登場する言語ゲームの環境から切り離されて設定されていることによる。

6.

まとめて述べれば次のようである。「感覚日記」は記号Eとある感覚を「むすびつけ」てカレンダーに書き込むという言語ゲームであった。これを、他の言語ゲームから切り離し、「完結したプリミティブな」(PI 2)言語ゲームとして捉えて、外から眺めた場合、「E」をある「感覚」の「名」である、と主張する根拠、あるいは、何ものかの「名」であると主張する根拠は十分でなくなってしまう。(ここでも、第2節の言語ゲームとその後に続く議論に比較してみることが有益である。cf.PI2,10 etc)

※『探究Ⅰ』256や258における「むすびつけるassoziieren」という言葉については、下の8.を参照。

事態は、幾分、次の状況に比較可能である。

 何か赤いものを見た時にある音声を発し、黄色いものを見た時には別の音声を発し、というふうにに他の色についても同様に反応するよう訓練された人については、それでもまだ、彼は諸対象をそれぞれの色彩にしたがって記述できる とは言えないのだ。(LPPⅠ410, cf.PPF70)

 

たとえば、ある人が、耐え難い痛みに襲われる度、部屋の壁にこぶしを打ちつけ、穴を開けると想定して見よう。壁の穴は痛みの記号なのだろうか?そう言い得るのはどのような条件の下でだろうか?

誰かが記号を-たとえばカレンダーに-記入すれば、何かを書きとめたことになるのは当りまえだ、などと考えるな。書きとめることには確かになんらかの機能があるけれども、記号「E」には今のところsoweitまだ何の機能もないのである。(PI260, 藤本訳)

上の、「今のところsoweit」という言葉に注意する。

その後、270節で、血圧の上昇と感覚Eとの並発が経験的に知られると仮定して、「再認」の問題が論じられる。
このとき、「完結したプリミティブな」言語ゲームとしての「感覚日記」は拡張され、そこにおいて改めて、「E」をある感覚の記号と呼べるかが問われることになる。

 すると、この場合、「E」をある感覚の記号と呼ぶ、どのような根拠をわれわれは持っているか。おそらくそれは、この記号がこの言語ゲームの中で適用されるしかた、であろう。ーそれでは、なぜ一つの「特定の感覚」、つまり毎度同じ感覚の記号であるのか?そう、われわれはそのつど「E」と書く、と仮定しているのである。(PI270)

 ここで、「E」が感覚の記号であるという問題と、「E」が「きまった、同じ」感覚の記号であるという問題とが 分けられていることに注意しておきたい。
270節の「拡張」は、ウィトゲンシュタインが言うところの「言語ゲームが生活に埋め込まれている」仕方を照明する一歩と見なせるだろう。

7.

しかし、(そもそも極めて単純なパターンしか持たない)「感覚日記」を、「感覚の登場する通常の言語ゲーム」から孤立させて想定しておいて、「「E」をある感覚の記号とよぶことにどのような根拠があるのか。」と問うのみなら、「無い」という答えが出てくるのは当たり前であり議論に値しない、と言われるかもしれない。

そこで、「自己自身の前での正当化」と呼ばれている行為に焦点を当てなければならない。

「感覚日記」には、「Eが、ある感覚の記号である」ことを正当化すると思われる、ある行為が想定されていた。それが、「自己自身に対するある種の直示的定義」と呼ばれる行為であった。そこで、この行為に対する批判が、議論の焦点となるのである。

8.

「感覚日記」の想定における、「むすびつけるassoziieren」という言葉について。

しかし、もしわたくしに感覚の自然な表出がなく、感覚だけがあったとしたら、どうか。いまや、わたくしは単純に名と感覚とを結び付けassoziiere、それらの名を記述に用いるのである。- (PI256 藤本訳)

この目的のために、私はその感覚を"E"という記号に結び付け(assoziiere)、その感覚が起こった日にはカレンダーにこの記号を書き記す。(PI258)

ともに、感覚と記号の関係は「むすびつけるassoziieren」という(あいまいな)言葉で描出されていて、「名づける」や「意味する」といった用語は使用されていない。ウィトゲンシュタイン自身、「感覚日記」の描出において、日常的な言語での通常的意味関係を連想させる「名づける」や「意味する」でなく、あえて曖昧な「むすびつける」を選択する必要を感じたのだと思われる。