私的言語論を平明に読むために3

1.
258節においてすでに、「E」がある感覚の記号であることの正当化らしきものが登場していた。それが「自分自身に対するある種の直示的定義」と呼ばれていたものである。

この行為によって、「E」が「これ」(その感覚)の記号であることが、「主体自身」に対して定義され、それゆえに「主体自身にとっては正当化されている」かのように見えた。

それは「注意の集中」によって行われていた。それゆえに、外部の環境に依らずに、主体の内面のみにおいて、正当化が可能であるかのように思われたのだ。
しかも、「E」が「これ」(その感覚)の記号であることだけでなく「感覚の記号」であることも正当化されるかのように、
つまり、二重の正当化が一つの行為でなされるかのように見えるのである。

こうして、『「E」は感覚の記号である』という主張の正当化が、「感覚日記」について語る言語ゲームの中でなく、「感覚日記」内部ですでに行われているかのように思えたのである。

 「わたくしが<自分は痛みを感じている>と言っているときには、ともかくも自分自身の前では正当化されているのだ。」(PI289 藤本隆志訳)

※ここで立ち入る余裕はないが、この「正当化されている」という「感じ」は、

言葉が「よくなじんだ顔立ち(PPF294)」をもっており「使用を微かにほのめかす暈をもっている(PPF35)」という「感じ」、

に関連するだろう。(cf.PO p242)

 

 以上のような観念が、259~268節ににおいて批判されている。
ここで、「‘E’が何かの記号である」という観念への批判と、「‘E’がある感覚の記号」であるという観念への批判が、下のように、一旦区別されていることに注意したい。

そうすると、この記号をカレンダーに記入したひとは、全然何も書きとめなかったことになるのか? 誰かが記号をーたとえばカレンダーにー記入すれば、何かを書きとめたことになるのは当り前だ、などと考えるな。(PI260, 藤本訳)

「E」をある感覚の記号とよぶ、どのような根拠をわれわれはもっているか。(PI261)

 この「私的な正当化」に対する批判は、私的言語論において「朝刊を何部も買い込む男」「想像された時刻表」「右手による左手への贈与」などの比喩を使って論じられる有名な論点である。また、クリプキの規則順守の議論とも直接関連する(「私的に規則に従う」という観念の批判)。それを論じれば長くなるため、ここでは触れない。しかし、それが私的言語論のすべてではないことも重要である。

2.
「私的な正当化」の幻想を支えるものは、「注意の集中による指示」「見ることによる指示」という幻想である。
これに対する批判も、ウィトゲンシュタインのさまざまなテクストから拾い出すことができる。

 次の例を見よ:あなたが私に何行か書くように言い、私がそうする間に「君は書いている間に、手に何かを感じるか?」と尋ねる。「ああ、ある特定の感じがする」と私が言う。-私は、書いているときに「私はこの感じがしている」と言うことはできないのか?もちろん、言うことができる。そして「この感じ」と言っている間に私は感じに注意を集中する。-だが、この文で私は何をしているのか?私に対して、その文は何の役をするのか。私は自分が感じているものを自分自身に指し示しているように見える。ーあたかも、注意の集中という行為が「内面的な」指示の行為であるかのように。ただ私以外には観察できない行為だが、それはたいしたことじゃない、と。しかし、わたしは注意を集中することで感じを指示しているのではない。むしろ、感じに注意を向けることは感じを産み出したり、変容させたりすることなのだ。(BBB p174)

ここで再び混乱が起こるのは、ひとが自分の注意をある感覚に向けることによって、その感覚を指し示している、と想像してしまうことによるのである。(PI411 藤本訳)

わたくしは彼に視線を向けることによって彼を意味した、と言うのは誤っている。「意味する」という言葉は、意味作用を<外に表出する>活動を、あるいはそれを一部として含む活動を指し示すものではない。(Z19 菅豊彦訳)

そして、先に ※以下で言及したように、ウィトゲンシュタインがさまざまな場面に見出した「熟知の感じ」の問題系がこれに関連してくる。その詳しい検討はまた別の機会となる。