私的言語論を平明に読むために 1

1.

『探究Ⅰ』の「私的言語論」は、長い間、後期ウィトゲンシュタインに関する議論の焦点であるかのように扱われてきた。
しかし現在、『探究Ⅰ』の中におけるその位置づけ、重要性については、人に拠って見解が分かれ、意見の一致を得ることは難しいかもしれない。
それでも、「私的言語論」の残響は、『探究Ⅰ』以後のテクストの中にも様々に聞き取ることができるし、その成果は重要な前提として機能しているようにみえる。
その意味で「私的言語論」は、『探究Ⅰ』以後の「心理学の哲学」について論ずる場合にも、避けて通れない論題のはずである。

その「私的言語論」とは、PIにおいて、243節から開始される部分をさすが、どこまでをそう呼ぶべきかについては研究者の間でも意見が分かれる。
実際に243節以降を一読してみても、大抵の読者は、関連し合いながら次々に移り変わってゆく論点に翻弄され、明確な主題の区分などは困難に思えてしまうであろう。

2.

そもそも「私的言語」とは何か?何であれ、「私的言語論」は、その「私的言語」の不可能性を論証しているというのか?
ところが、ウィトゲンシュタイン自身が、当の『探究Ⅰ』の中で「私的言語」という言葉の使用の可能性を示唆しているかのようである(PI 269)。あるいは、「私的体験」という表現を使用してもいる(PI272)し、「<私的な>計画」「私的な計画に従う」という言葉の使用も禁じていない(PI653)。
それぞれの箇所でウィトゲンシュタインが何を意味しているかは、個々の文脈に即して読み取らねばならないのであり、「私的言語」という言葉を切り離して単独で振り回すことは混乱につながるのだ。

そこで、ウィトゲンシュタインが、「私的言語論」のテクストの中で、実際に批判の対象としている観念は何か、確認しておかなければならない。それは、次の部分に示されている。

 しかし、誰かが自分の内的体験ー自分の感じGefule、気分Stimmungenなどーを自分だけの用途のために書きつけたり、口に出したりできるような言語を考えることもできるのだろうか。-はて、われわれは自分たちのふつうの言語でそうすることができないのか。-だが、わたくしの考えているのは、そういうことではない。そのような言語に含まれることばは、それを話している者だけが知りうること、つまり直接的で私的なその者の感覚Empfindungen、を指し示すはずなのである。それゆえ、他人はこの言語を理解することができない。(PI243 藤本隆志訳)

さて、わたくしの内的体験を記述し、わたくしだけが理解できるような言語についてはどうだろうか。どのようにしてわたくしは自分の諸感覚Empfindungenを言葉によって表記しているのか。-日常おこなっているようにか。だとすると、わたくしの感覚語は、わたくしの自然な感覚表出と結びついてverknupftいるのか。-その場合には、わたくしの言語は<私的>でない。他人も、わたくしと同様、それを理解できよう。ーしかし、もしわたくしに感覚の自然な表出がなく、感覚だけがあったとしたら、どうか。いまや、わたくしは単純に名と感覚とを結び付けassoziiere、それらの名を記述に用いるのである。- (PI256 藤本訳)

 ウィトゲンシュタインの批判の対象となっているのは、単なる「わたくしだけが理解できるような言語」という観念ではなく、「直接的で私的なその者の感覚Empfindungen、を指し示」し「わたくしの内的体験を記述」する言語、という観念であった。

だが、まずここに問題をみることができよう。
「わたくしだけが理解できるような言語」の観念は、「自己の固有の感覚、自己の固有の内的体験を表す言語」 の観念と密接に結びついているように見える。つまり、「自己の固有の感覚、内的体験を表す言語」こそが「わたくしだけが理解できるような言語」であるとされ、それを前提として論じられがちである。
実際に、ウィトゲンシュタインが導入する仕方も、両者を結びつけている。だが、この両者は元来異なったことを意味しているはずである。

3.
そのことに留意しながら、「私的言語論」の論点を、試しにいくつかに「分解」してみよう。

1.「自己自身による正当化」「自己自身に対する定義」「私的説明」等の観念の批判(「規則に<私的に>従う」という観念の批判に関連)
2.感覚を表す語の使用、文法の解明 (「表出」の問題との関連)
3.「注意による指示」という幻想の批判


(「痛み」が帰属する対象についての問題、行動主義者という誤解への論駁など、重要な論点は他にも挙げられるが、ここでは先ず、以上の3つに注目する。)

 

これまで「私的言語論」に関する議論の中心となってきたのは258節の「感覚日記」であった。
「感覚日記」の議論は、1から3までの論点を同時に担わされており、それが難解さの源泉の一つとなっているように思う。

「私的言語論」におけるウィトゲンシュタインの議論について、「わたくしだけが理解できるような言語」の観念への批判に重点を置くならば、クリプキの議論が示すように、「規則に<私的に>従う」という観念の批判 という論点に同化させることができるかもしれない。その場合、「私的言語論」は、そのバリエーションとみなされ、「感覚の言語」に特有の問題を重視せずに論じられることも可能となるかもしれない。

しかし、実際には、議論の重点は、そこだけに掛けられてはいないのである。