記述に留まる

1.
以前、「語られることと示されること」という『論考』の主題のその後について触れたが、他方で、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」(TLP 7)という有名なテーゼに込められたものは、後期の思想において、「説明の断念」という姿勢へと継承されたように思われる。

 哲学はまさにあらゆることをただそのままにしておくのであり、何事も説明せず、何事も推論しない。(PI126)

われわれの錯誤は、事実を<原現象>と見るべきところで、説明を求めるということ。すなわち、かかる言語ゲームが行なわれている、と言うべきところで。(PI654 藤本隆志訳)

われわれはここで、哲学的考察に特徴的な、注目すべきひとつの現象にぶつかる。困難なのは解決を見い出すことではなく、解決の前段階にすぎぬように見えるものを解決として承認することであるーとわたくしは言うことができよう。
「われわれはすでに言うべきことはすべて言った。-そこから導かれる何かではなく、まさにそれが解決なのだ!」
この困難はわれわれが説明というものに誤った期待をいだいている、ということと関係があるように思われる。一方、われわれが記述をわれわれの考察の内に正しく位置づけるならば、記述がすなわち困難の解決になる。もしわれわれがそこに留まり、それを越えようとしないならば。
ここで困難なのは、留まるということなのである。(Z 314 菅豊彦訳)

 2.
ウィトゲンシュタインによる「解決」の試み、その例として、ムーアのパラドクスに関するPPFの x 節を挙げることができよう。その内容は改めて取り上げるとして、ここでは彼の手法の特徴について見てみる。

この節については、リースの証言が伝えられている。

 ケンブリッジでの数週間に、彼は主にそれまで三年以上にわたって書いてきた覚え書きを最終選択したものを含めた手稿をタイピストに口述することに関わった。それは現在の『哲学探究』第二部となっている。(・・・)
しかし、とくに満足している節は<ムーアのパラドックス>(x節)についてであると彼はリースに語っている。リースによれば、彼はこのパラドックスに関するたくさんの覚え書きをそのような比較的短い節(三頁に印刷)へと凝縮したことを喜んでいたということである。(レイ・モンク『ウィトゲンシュタイン』2、岡田雅勝訳、p600)

 珍しいことにウィトゲンシュタイン自身が満足した、というこの証言を信じて、パラドックスが解消されることを期待しながらx節を読む者は、肩透かしを喰らった気分になるかもしれない。
そこでは、「信じる」という動詞に関する「ムーアのパラドックス」の呈示に続いて、「信じる」の様々な解釈(あるいは、その特定の解釈に基づく言語ゲーム)や、「私は・・・を信じる」に類似した言語ゲームがいくつか呈示され、考察を加えられる。しかし、「信じる」という言語ゲームは、そのうちのどれかに還元されるのではない。あるいは、そのうちのいくつかの合成と見なされるのでもない。

そのように見なそうとする傾向に対して、別の遺稿で、彼は言う。

 「しかし、<信じる>という動詞の用法、その文法はどうしてあのように奇妙な仕方で合成されているのか?」
その用法は何も奇妙な仕方で合成されているわけではない。それをたとえば「食べる」という語の用法と比較すると奇妙に思えるに過ぎない。(RPPⅠ751佐藤徹郎訳)

 そして x 節の終わり近くでは次のように述べられる。

 ここでは様々な概念がふれあい、ある範囲で一致している。線はすべてである、などと信じてはならない。(PPF108)

 x節で呈示された数々の言語ゲームは、様々な点でお互いに類似し、「ある範囲で一致」する。だが、そこにはそれぞれ重大な差異も存在する。ウィトゲンシュタインはそのような事実の呈示に留まり、あるゲームを他のゲームに還元して説明したり、多数のゲームを同一化して説明したりすることを拒否する(「線はすべて円である、などと信じてはならない。」)。読者を途方にくれさせるかもしれないが、彼にとっては、言語ゲームの事象(概念)を、差異と類似の網のなかでみる(PI66)ことがそのまま「解決」なのである。

 あらゆる理論を断念することの難しさ。人は不完全であることがきわめて明白と思われるあれこれのことを完全なものとみなさなければならない。(RPPⅠ723佐藤訳)