役割の決定不能性

1.
とくに原初的な言語ゲームにおいては、ある言表の「役割」を、より発展した言語ゲームの中でのようには、明確に確定しがたい場合がある(原初的な言語ゲームにおける決定不能性。PI 19以下の断章は、そのことを提示する典型的な議論である。)
このことは、ウィトゲンシュタインの手法における、原初的な言語ゲームを例とすることの重要性に関わっている。

文法的命題(ここでは「幾何学的命題」と呼ばれている。cf.RPPⅡ550)と経験的命題の決定不能性、役割転換の例をみよう。

 「見てごらん、この線を引いたら、この顔は悲しげになるよ」。この文はどういうカテゴリーに属するのか。この文はどう使用されるのか。私は前に、この文は幾何学的命題に似ている、と言った。しかし、人は、この文は心理学的命題であるーそれゆえ経験命題であるーと考えてみることができるだろう。(この文はたとえば、<この材料を加えたら、この物質は黄色になる>という文と比較することができる。)

誰かが子どもに対して、たとえば「見てごらん。この二個の石を一緒にしたら、円ができるよ」と言う。-その子が学んでいるのは経験命題なのだろうか。(私はここでわざと大人ではなく子どもについて語っている。)

(この文が再度「いくつかのゲームの間に」落ちることはないだろうか。)

先の文は必ずしも幾何学的命題とは限らないだろう。この線で描かれた顔がいま私に悲しげな印象を与えることを確認する、という目的で言われる場合もありうるだろう。しかし、その文が概ね幾何学的(無時間的)な命題の役割を果たすこともありうるだろう。

(LPPⅠ759-762, 古田徹也訳、原文中の絵は省略)

 2.
だが、決定不能性は、非‐原始的な言語ゲームの中でも姿を現す。
記述、表出、命令といった分類をめぐって、アンスコムが印象的な例を挙げている。

 例えば、医者が看護婦の面前で、患者に向かって「看護婦があなたを手術室までお連れします」と言う場合、この発言は(この発言において、何をしようとするかについての医者の決心が表明されているとすれば)彼の意思の表現であると同時に患者に対して情報を与え、かつ命令を与えてもいるのである。(Anscomb,Intention,p3 菅豊彦訳p4)

 この医者の発言は、看護婦への命令、自らの意思の表出、患者の未来の記述、そのいずれともいえるだろう。
cf.PI 21
このように、決定不能性は、日常のごく普通の会話の中にも現れる。

※このような例を言語行為論の道具立てによって分析することも興味を惹くことであるが、いまそれに立ち入る余裕はない。ここでは、まず第一にウィトゲンシュタインのテクストの論理に従って話を進める。

 

3.

 「助けて!」という言葉と「私は助けを必要とする」という言葉とは異なる意味を持つ。ではわれわれがそれを同じ意味とみなすのはわれわれの理解の未熟さにすぎないのか。「厳密に言えば、私の言おうとした意味は<助けて!>ということではなく、<私は助けが欲しい>ということだった。」-こう言うことはつねに何らかの意味を持つか。(RPPⅠ498佐藤訳)

 あらゆる命題を何らかの事態の記述であるとみなし、言語に対する一種類の見方で、言語の全事象を裁断しようとする。そのような理解、態度をウィトゲンシュタインは哲学の病と捉える。

 哲学の病の主たる原因ーかたよった食餌。ひとは自分の思考をたった一種類の諸例で養っている。(PI593藤本訳)

 ウィトゲンシュタインにおいて、決定不能言語ゲーム(それは特殊な例ではなく、ごくありふれたものである)は、諸言語ゲームの差異と類似の網のなかで見られることによって、還元的な説明なしに、そのまま受け入れられる。
次回は、その例についてみておこう。