私的言語論を平明に読むために5

1.
前回、「環境Umgebung」「状況Umstand」という語に着目した。
言語ゲームを呈示することは、その「環境」をも呈示することである、と言ってよい。

 一つの言語ゲームを想像することは、一つの生活様式を想像すること(PI19)

 いままで、「感覚日記」の妥当な読み方について考えてきた。

そこには、ウィトゲンシュタインの側にも、「誤読」をまねくような原因が大いにあったのではないか?
「感覚日記」において、「環境」の描出は明瞭といえるのであろうか?そもそも様々な誤解を呼ぶあいまいさが、そこに付きまとってはいないだろうか?

具体的には、
「E」と記す「わたし」とは何者か、どのような経験を持った人間であるのか?
「その感覚」と「E」を「結びつけるassoziieren」とは、どのような性格の行為か?
等の疑問を差し向けることができるのだ。

たとえば、「日記をつけたいと思う」という描写を問題にすることができよう。

もし、通常の言語的経験を経て、普通の大人となった「私」が日常生活で「感覚日記」(「E」)をつける場合は、「E」について様々な仕方で、外部の言語ゲームの中で言及や説明を行うこと、他の言語ゲームに接続することが可能であろう(ただし、その場合、「E」は「私的言語」ではないであろうが)。

『探究Ⅰ』258の描写のみを読むならば、たいていの読者は、そこでの「私」も、それが可能であると期待する。(だから、「感覚日記」の議論は、「E」の意味に関する、記憶への懐疑論と解釈されたりしたのである。)

われわれの日常生活において「日記をつける」ことは、他の様々な言語活動の中に織り成された活動である。たとえば、その日記の内容が、他の機会に、公共的言語によって、過去の事件として語られる、等。そうしたことが一切ない、孤立した、「E」と書くだけの言語ゲームを、そもそも「日記」と呼ぶべきかどうかは問題なのである。

それゆえ、「感覚日記」が他の言語ゲームとの連絡を欠いた、孤立したゲームである、と理解するほうが不自然とも言えるかもしれない。

※ちなみに、永井均『<私>のメタフィジックス』のX君とY氏をめぐる議論(p39~)が、この問題に関わっている。ここではその指摘のみに止めておきたい。

おそらくそのひとつの原因は、彼がX君の症例とY氏の症例の重大な差異を軽視し、実は絶えずX君を念頭におきながらそれをY氏ふうに語る、という誤りを犯したことにあるのではないだろうか。(永井均『<私>のメタフィジックス』p44))

2.

だが一体、ここで誤解を招かない記述とはどのようなものなのだろうか。

そのように考えてゆくと、「言語ゲームの記述」という方法自体がある種の困難を抱えているのではないかと思われてくる。

ひとたび、「感覚日記」を離れて、ウィトゲンシュタインが自らの方法の「弱点」に気づいており、折々にそれについて触れていたことを確認したい。

原始的な言語ゲームの記述という、後期のウィトゲンシュタインを特徴付ける手法の典型例は『探究Ⅰ』第2節に示されているが、ウィトゲンシュタインがその後もこの節に何度も言及しており、その中で自らの手法そのものに対して検討を加えていることは見逃せない。

 第二節の言語ゲームについて、ここで多少述べておかねばならない。-いかなる状況Umstandenの下で、建築家の音声等々は実際に一つの言語と呼ばれるのであろうか。あらゆる状況においてだろうか。断じてそうではない!-それでは、言語の萌芽形態を孤立させ、それを言語と呼ぶことは誤っていたのか。あるいはこの萌芽形態はわれわれがいつも自分たちの言語と呼んでいる全体的状況Umgebungの中でのみ言語ゲームである、というべきなのか??(RPPⅡ203 野家啓一訳)

以上のことは、誰かが「君はまさに暗黙のうちに、これらの人々が考えているということ、彼らがこの点に関してはわれわれになじみの人々と似ているということ、彼らはかの言語ゲームを全く機械的に行っているわけではないということをすでに前提している。なぜなら、彼らがそのように言語ゲームを行なっていると想像しているのならば、君はそれを発話とはよもや呼ばないであろう」と言ったとすれば、その時にのみ私にとって危険なものとなろう。(RPPⅡ205 野家訳)

『探究Ⅰ』第 2節のゲームを言語と呼ぶことには、先入見があるのではないか。
その中である特定の活動が言語活動として成り立つような「全体的状況」(RPPⅡ203)をわれわれが暗黙のうちに読み込んでいるからこそ、2節のゲームを疑うことなく言語(言語ゲーム)と呼べるのではないか。

(2)の言語ゲームについて、わたしはどのように、他者あるいは自分に説明できるのだろうか?Aが「Slab」と叫べば、いつも、Bがこの種類の物体を運ぶ。-わたしはこうも自問しよう:どのように自分はこれを理解できるのか?。そう、ただ自分がそれを説明できる限りの内容において、である。
だが、ここに奇妙な誘惑がある。それは次のことに表われている。私はそれを理解できない、というのも、その説明をどう解釈するかは依然として曖昧なのだから、と私は言いたくなる。(RFMⅥ 40)

そして、われわれ正常な視覚を持つ者が習得できるものの全体を、私は誰に対して記述できるのか?

記述を理解することも、すでに、理解する人が何かを学んでいることを前提している。(RCⅢ121)


その「全体的状況」(環境)はどのように描出されるのか。どこまで描出すれば十分なのか。

 私はいいたい、言語は生活の仕方に関係する。
言語という現象を記述するには、何らかの慣習(Praxis)を記述せねばならず、いかなるものであれ、一度だけ生じるものごとの記述ではいけない。(RFMⅥ 34)

ある言語ゲームを「慣習」として描出するとき、背景となる「生活の仕方」の了解が、描出を理解するための前提として必要である。
だが、その「生活の仕方」は、どのように提示されるべきなのだろうか。

3.

 具体的な例を通して、彼の困難を確認しよう。

次のように想像してみよう。神が、荒野の真ん中に、イングランドの一地域の正確な再現であるような国土を、2分間のみ、一挙に創造する。その地域で起きるすべてのことがそのなかで2分間のみ起こる。イングランドの内と同様に、そこで人々はさまざまな仕事に従事する。子供たちは学校にいる。或る人々は数学を行っている。さて、これら2分間の間の人々の活動について考えてみよう。これらの人々の内の一人が、イングランドで或る数学者が行っているのとちょうど同じことをしている。すなわち、計算をしているのだ。――われわれは、この2分間人が計算をしているというべきなのか。たとえば、その2分間の出来事を計算とは全く異なるものと呼ばせるような、その2分間の過去ならびに続きを想像できないだろうか。(RFMⅥ34)

 上の断章では、2分間人の活動を「計算」として無条件に捉えることに疑義が呈されている。
しかしながら、言語ゲームの記述、説明、提示は、そもそも、我々が使用し、なじみのある言語、概念によって行われる。
2分間人の活動は「イングランドで数学者がしていることとちょうど同じ」と記述されていた。だが、「ちょうど同じ」という言葉の背後に、われわれはどのような「全体的状況」を読み込むべきなのかは、決して明らかではない。cf.RPPⅡ186、Z102

この言語ゲームを知らない人々を考えてみよう」と我々は言う。しかし、我々はそう言っただけではまだ、そうした人々の生活が我々自身の生活とどこが異なるかについて明確なイメージをもっているわけではない。我々にはまだ、自分たちが何を想像すべきなのかが分からないのだ。なぜなら、そうした人々の生活は他の点では我々の生活と符号しているとされる以上、まずもって、その新しい状況下で何を我々の生活と符合した生活と呼ぶかを定める必要があるからである。(LWPPⅡp71 古田徹也訳p374, cf.RCⅢ296

このように、ウィトゲンシュタインの方法自体に、避けがたい曖昧さが付きまとう。そして、彼自身、(ここまで見てきたように)そのことを明瞭に意識していた。
それでも、そのために自身の営みについて深刻な懐疑に陥ったりしたような形跡は、少なくとも出版された遺稿の中には見当たらないようだ。それは、彼が自身の哲学を、いわば治療のための方便としてのみ捉えていたこと、決して何らかの理論のためのものとは考えていなかったことの現れでもあるだろう。

そう、彼の後期著作を形作る諸々の断章もまた、「投げ捨てられるべき」かどうかは別にして、「梯子」であり、「手段」であった。そう思われるのだ。