移行と中間項

1.
ウィトゲンシュタインにとって、差異の強調、2つの極の対比を際立たせることと同じく重要であったのは、それら対比された項の間の移行的例、中間項を発見する、という方法である。

 それらすべてに何か共通なものがあるかどうか、見よ。-なぜなら、それらを注視すれば、すべてに共通なものは見ないだろうが、それらの類似性Ähnlichkeiten、連関性Verwandtschaftenを見、しかもそれらの全系列を見るだろうからである。(PI66 藤本隆志訳)

われわれが自分たちの語の慣用を展望していないということ、このことがわれわれの無理解の一つの源泉である。―われわれの文法には展望性が欠除している。―展望のきいた叙述は理解を仲介するが、この理解はまさにわれわれが<連関を見る>ということにおいて成り立つのである。それゆえ、連鎖の環を見出し、あみ出すことが大切である。(PI122 藤本訳)

 その理由は、中間項を見出すことで、言語活動という景観の「広がり」が把握でき、ある道から他の道への「移行」が容易になるから、である。前に述べたように、「展望」で重要なのは、単に眺望を得ることではなく、景観の中を自由に行き来する能力を身につけることなのである。(cf.RPPⅠ1054)

 2.
場合によっては、架空の中間的な言語ゲームを作って見ること(「連鎖の環を見出し、あみ出すこと」PI122)が非常に役に立つ。これは、ウィトゲンシュタインにとって、欠かすことのできない方法であった。

 われわれが持っている概念を初めて理解させてくれるような、架空の概念 を構成することほど大切なことはない。(LPPⅠ19)

3
差異を強調することと、差異の両極の間の中間項を示すこと、この一見対立する手法を同時に行うことで、言語ゲームの多様性を認識し、それらに対する適切な扱いを学ぶことができる。ウィトゲンシュタインは差異と等しく、その中間項、さらには差異の増減してゆく様も例示しようとする。 

 そして、「読むこと」や「記号によって導かれること」という語の場合と同様に、この語の使用の説明も、その本質は、特徴的な諸点を示す例を選択して記述することにある。ある例は、特徴を誇張して表し、他の例は中間的(移行的)な場合を示し、ある事例の系列はそれらの特徴が薄れてゆく様を示すであろう。誰かが君に ある誰それの家族の容貌の特徴について教えようとする場合を想像せよ。そのため彼は、その家族の肖像の一組を見せて、ある特徴に君の注意を惹こうとするのである。かれの行う主要な仕事は、これらの肖像を適切に配置することである。それによって、特定の影響力が特徴を徐々に変化させてゆくさまを観察したり、家族のメンバーがどんな仕方で年をを取ってゆくか、年を取るとどんな特徴が強まってくるか、等を見たりすることができる。(BBB p125)

 それゆえ、彼のテクストには「移行(推移)が存在する」「程度の差が存在する」といった言葉が、至るところに現れる。それは、言語ゲームについて言われる場合も、言語ゲームが適用される事象について言われる場合もある。

 われわれは、テーブルや椅子について、「それは今考えている」とか、「それは今考えていない」とか、「それは決して考えない」とは言わない。また植物についても、魚についてもそう言わないし、犬についても、ほとんどそうは言わない、ただ人間について、そのように言うのだ。もっともすべての人間についてではないが。
「テーブルは考えない」は「テーブルは成長しない」といった表現と同様なものである、と見ることはできない。(わたくしは、もしテーブルが考える<としたら、それがどのようなものになるか>まったく見当がつかない。)ここに、明らかに人間の場合への漸進的な移行が存在する。(Z129 菅豊彦訳)

ところでまた、誰かが自分の読まなくてはならないものを暗記して誦える場合と、前後関係や暗記による推測の助けをまったくかりずに各語を一文字ずつ読む場合との間に、連続した一連の推移が存在することに注意せよ。(PI161 藤本訳)

-しかし、ひとはいったい、いかなる権利で、これらの人々の使う「赤い」「青い」が我々の「色彩語」であると言えるのか?ー
これらの人々は、どのようにして、それらの語を使うことを学ぶのだろうか?そして、彼らが学ぶ言語ゲームは、我々が「色彩名」の使用とよぶものなのだろうか。ここには明らかに程度の差が存在する。(PPF346)

叫びは記述ではない。だが、移行が存在する。(PPF83)

 最後の例について言えば、様々な「発言」というクラスの中に、一方では「叫び」としか言いようのない典型的な例、他方では「記述」と呼ぶべき典型例というものが存在する。そして、その間には、膨大な数の中間的例がある。
ウィトゲンシュタインは、いずれかの典型例という一極のみをモデルにして、全ての例を解釈し、操作することに反対する。

4.

次の断章は、ウィトゲンシュタインの、類似と差異への着目の仕方をよく示している。

 喜び、楽しみ、歓喜は感覚ではない、と言うことは、字句にこだわりすぎることなのだろうか。-歓喜と、われわれが例えば「感官感覚」と呼んでいるものとの間にいったいどれぐらいの類似があるのか、一度問うて見よう。
それらの間をつなぐものは、痛みであるかも知れない。それというのも、痛みの概念は、たとえば触覚の概念に似ている(局在性、真の持続、強度、質といったメルクマールを通じて)と同時に、その(顔の表情、身振り、叫びといった)表現によって情動にも似ているからである。(RPPⅡ 498,499)

 ここで実践されている考察の方法は、まさしく<連関を見る>(PI 122)と彼が呼んだものである。言語ゲームの事象(概念)を、差異と「類似の網のなかでみる」(PI 66)ことであり、それはまた、道路の比喩で、「さまざまな道の間のつながりを把握」することと呼ばれていたものであるのだ。それは、また、PI 92において、「配列によって展望可能になるものを見る」ことと呼ばれていたものでもあることに注意しよう。