私的言語論を平明に読むために4

1.
「感覚日記」と、その拡張の問題に戻る。

「E」は、より広いコンテクストにおかれて初めて、「名」であり、「感覚」を意味していると、十分に主張し得る。コンテクスト、それをウィトゲンシュタインがしばしば使用する言葉を用いて、環境Umgebung(PI250他)あるいは状況Umstand(PI179他) と言い換えてもよい。それは外部的な環境(一定の慣習の成立した社会など)も、言語ゲームに携わる人間自身の内部的条件(音波の一定の周波数の領域が可聴域である、など)も共に含むだろう。それが人間が歴史的・文化的に形成し伝えてきたものか、あるいは人間に生得的なものかは、個々の場合によるだろう。

 正常な場合にだけ、ことばの慣用は、われわれにとって明確である。(・・・)もし物事が、現実にあるのとはとは全く異なった在り方をするのであればーたとえば痛みや恐れや喜びに特有の表現がなかったり、規則であることが例外になり、例外であることが規則になったり、あるいは双方がほぼ同じ頻度で起きたりするならば、-我々の通常の言語ゲームは、それによって自らの要点Witzを失ってしまう。(・・・)
われわれがある概念の意味(わたしは重要さという意味で言っている)を説明するために言及しなければならないことは、しばしば極めて一般的な自然の諸事実である。あまりに一般なために、かって言及されることのなかったことがらである。(PI142)

 そのような環境の存在を自明視するとき、ある言語ゲームが何のコンテクストもなしに存立し得るかのように、あるいは、いかなる環境においても元の言語ゲームの本質を失わずに成立するかのように考えられてしまう。

 わたくしは、かくかくの自然の事実が別様であったならば、人間は別の概念を持っていたであろう、と(一つの仮説の意味で)言っているのではない。そうではなてく、ある種の概念が絶対的に正しく、別の概念を持っているようなひとはまさにわれわれの洞察していることを洞察していないのだ、と信じているようなひとは、-ある種のきわめて一般的な自然的諸事実を、われわれが慣れているのとは違ったふうに表象してみるとよい、そうすればふつうのとは違った概念形成がそのひとにも理解できるようになるであろう、と。(PPF366)

 例えば、人が指差して見せたとき、手首の方向を見つめる人(PI185)のみからなる社会、あるいは指さしによる言表や教示が存在しない言語を想像することは可能であろう。

実際には、われわれがそのような人に出会うことはありそうにないことである。そのように、指差された際に指の先のほうをみるという反応は、人間にとってなんらかの生得的な素因に根ざしているのかもしれない。そして、その反応が人間に普遍的であるゆえに、言語に拠るコミュニケーションが容易になっていることは大いにありえるだろう。そのような反応は、われわれの言語一般にとっての環境をなしており、恣意的に変化させがたいと言えるかもしれない。だが、ある環境が恣意的に変えがたいことと、それが「言語」という概念にとって論理的な条件であることとは、一般的には区別されるだろう。

※つまり、これらの議論を奥のほうで支えているのは、われわれが一般的に持っている「言語」の概念の幅の広さ、曖昧さである、といえるだろうか?

2.
『探究Ⅰ』270節の例は、「感覚日記E」を包むコンテクストの一例と見なし得る。「E」の使用は、このコンテクストの中で、われわれの行う感覚に関する言語ゲーム の特徴を有しているか?(もしそうでないとすれば、「感覚の記号」と呼んでよいのかは、なお決定不能であろう。)

すると、この場合、「E」をある感覚の記号と呼ぶ、どのような根拠をわれわれは持っているか。おそらくそれは、この記号がこの言語ゲームの中で適用されるしかた、であろう。(PI270)

 3.
先に見たように、「E」が同じ感覚の記号であることは『探究Ⅰ』258節のみにおいては正当化できなかった。だが、正当化がないということは、その言語ゲームを必ずしも不当なものとするのではない(PI289)。それどころか、「この感覚が、・・・という感覚である」ことへの正当化が存在しないことこそ、感覚に関する多くの言語ゲームの特質なのである。

 2つの表象が同一であることの規準は何か?-ある表象が赤いことの規準は何か?他人が表象する場合、私にとっての規準は:その他人が言うことや行うことである。私が表象する場合には、私にとっての規準は:全く何もないのだ。このように「赤い」について当てはまることは、「同じ」についても当てはまる。(PI377)

「感覚日記」に続く節では、「E」が正当化なしに使われていることを認めることと同時に、「自己の前での正当化」「私的定義」「私的に提示する」「自己自身に対する説明」等の観念への批判がなされている(259節、262節~268節、278~279節、289節、311~313節を参照)。これらの批判の存在ゆえに、勘違いして「感覚日記」そのものを「言語ではない」「無意味である」と斬って捨ててはならないだろう。その示すものを見て取らなければならない。

 私は石へ固まりながらも、私の痛みは続いてゆく。-もし私が間違っており、それはもはや痛みではないとすればどうか!-いや、確かに私はここで間違うことができないのだ;自分が痛いかどうか疑うことには意味がないからだ!-つまり、もしある人が、「私には自分の感じているものが痛みであるか、別のものであるか、わからない」といったとすれば、おそらくわれわれは、彼が日本語の「痛み」という言葉の意味を知らないものと考え、それを説明しようとするだろう。(・・・)
もし、彼が例えば、「おお。「痛み」の意味はわかった。でも、私にわからないのは、自分がいまここに感じるこれが痛みであるかどうかだ」というとすれば、-われわれは首を振るばかりで、彼の言葉を、どう対処していいかわからぬ奇妙な反応とみなすであろう。(・・・)
そのような疑いの表現は言語ゲームの内に属していないのである。(PI288)

 例えば、「彼はその場所に1人の男が立っているのを見たが、よく近寄ってみると、それは彫像であったであった。」とは言えても、「そのとき、私は腕に痛みを感じたが、よく考えてみるとそれは実際はくすぐったさであった。」とは言えない。あるいは、嘘をついて「私は歯が痛い。」とは言えるが、「私は歯が痛い。」と誤って判断することはない。これらが露わにするのは、「痛み」という語の文法である。

 それでは、なぜ一つの「特定の感覚」、つまり毎度同じ感覚の記号であるのか?そう、われわれはそのつど「E」と書く、と仮定しているのである。(PI270)

私は自分の感覚をある規準によって同定するのではなく、同じ表現を用いるのである。しかし、それによって言語ゲーム終わるのではない。それと共に始まるのである。(PI290)

「私は歯が痛い。」はウィトゲンシュタインの言う「表出Äußerung」の一種であると言える。例えば、「私は痛みを感じる。」を自ら疑うことに意味が無い(PI288)、という特徴は、「表出」の多くに共通する。(たとえば、「私は明日旅立つつもりである。」「わたしは空腹だ。」など)
その意味で、私的言語論は、「表出」の文法の解明への導入ともなっているといえよう。