「説明」の周辺(33):意味、志向性、分岐する使用

1.

前々回、前回と、志向された事象の現前/非現前という観点から、「できる」や志向性の問題と 言葉の意味の問題との間につながりを見ようとした。むろん、それは両者の差異を無視することであってはならないし、類似は十分に明瞭にされたわけではない。しかし、この類比が的を外していないことは理解されよう。

実際に、ウィトゲンシュタインは、意味の問題と志向的態度の問題に似たものを見ていた。

「君が想像する赤は、確かに君が見る赤と同じではない(同一物ではない)。それなら、これが想像していた色だと、どうやって言えるのか?」― しかし両者の関係は、「ここに赤い色斑がある」という文と「ここに赤い色斑はない」という文の関係に似ているのではないか?どちらの文にも「赤い」という言葉が現れる。だからこの言葉は、何か赤いものの存在Vorhandenseinを示すものではありえないのだ。(PI443、鬼界彰夫訳 cf. PGⅠ89)

  一方、『論考』における、要素命題を構成する「名」は、この「赤い」のような語とは異なるものとして想定されていた。その特徴は、むしろ、後期における『論考』批判を通して見る方がわかりやすい。(ただし、その批判が『論考』当時の思想を正確に再現した上でのものかどうかは疑う余地がある。)

 

『探究Ⅰ』の初めの方でなされている、「名」と「単純な要素」の観念に対する批判は、『論考』に対する批判として読むことができる。

そのような「名」の観念をもたらしたものは、指示代名詞と名詞との類比であると、ウィトゲンシュタインは考えた。

指示代名詞「これ」は、それが指すものなしには使えない。「これ、と呼ばれるものが存在する限り、これが単純であるか複合的であるかによらず、「これ」という言葉は意味を持つ」、と言ってもいいかもしれない。(PI 45、鬼界訳)

そして実に奇妙なことに、「これ」という言葉については、それこそが本当の名だと言われていたのだ。我々が通常「名」と呼んでいる他のものはどれも、ある厳密でない、近似的な意味でのみ「名」である、と言われていたのだ。(PI 38、鬼界訳)

まず、「これ」への類比から、『論考』の「名」について考えよう。

指示代名詞「これ」に似ているとすれば、『論考』の「名」は、「対象」が存在しないところでは「シンボル」(cf. TLP3.31)たり得ない。(もちろん、ここでの「存在する」とはどのようなことか、が問われるべきであるが。)逆に、「名」がシンボルとして機能しているなら、「対象」は存在する。

そこで、われわれの使っている言語が有意味であり、すべての命題は要素命題の真理関数である(TLP5)なら、要素命題が有意味でなければならない。そのためには、その構成要素である「名」もシンボルでなければならず、それゆえ「対象」が存在しなければならない ― しかし、そのような「名」と「対象」のカップルを挙げることは誰も容易にはできない。

ただ、(『探究Ⅰ』を信じるなら)指示代名詞との類比を通じて、その特徴を規定することはできる、ように思える。すなわち、指示代名詞「これ」の使用が あるものを指示するように、「名」も「対象」を指示するのである。「これ」によって指示されるものが「存在する」ように、「名」の指示する「対象」も「存在する」。

「これ」の使用から類推すると、そのような「存在する」を特徴づけるのは、感覚への現前 であるように思われる。(ここでは、『論考』の「対象」は「センス・データ」と見なすべきか、そのような「対象」を意味する「名」から要素命題を構成することが果たして可能なのか、といった問題には立ち入らない。)

 

しかし、指示代名詞の使用について、ウィトゲンシュタインは言う。

― しかし、だからといって「これ」という言葉が名となるわけではまったくない。その逆だ。というのも名は決して指示的な身振りと一緒に用いられるverwendetことはないからだ。指示的な身振りは、ただ名が説明されるerklärtときにだけ付加されるのである。(PI 45、鬼界訳、※この引用に現れている「使用」と「説明」との対比に注意しよう。)

だが「名」の特徴とはまさに、「これがNだ」(あるいは、「これをNと呼ぶ」)という直示的定義において説明されるということなのだ。それに対して我々は、「これが「これ」だ」とか、「これを「これ」と呼ぶ」と言って説明するだろうか?(PI 38、鬼界訳)

指示代名詞と名詞との類比は誤りに導く類比である。かってのラッセルや『論考』の思想は、この誤った類比に引きずられていた、と彼は言う。

我々は実に様々なものを「名」と呼んでいる。つまり「名」という言葉は多くの異なる、そして様々な仕方で互いに関係する言葉の使用を特徴づけている― しかし、「これ」という言葉の使用法はその中に含まれてはいない。(PI 38、鬼界訳)

 

2.

 とはいえ、指示代名詞に類似した使用を持つ名詞を想像することは可能だ。

だが我々は、名が存在しながら(すなわち確かに我々が「名」と呼ぶような記号が存在しながら)、名の持ち主が現前Anwesenheitしている場面だけでしかそれを使わない言語ゲームを想像することもできる。つまり、この言語ゲームでは、名を、指差しを伴った指示代名詞で置き換えることが、いつでもできるのだ。(PI44、鬼界訳)

その名をつけられたものと一緒に用いられる場合にのみ意味をもつような、すなわちその名をつけられたものと一緒にのみ用いられるような名辞の例。つまりそうした名辞はただ対象を始終指し示す手間を省くのに役立つにすぎない。(RPPⅠ589 、佐藤徹郎訳)

記号の表示するものが存在しなくなるやいなやその記号は無効になる(ことによると破棄される)― こういった仕方で記号を使用することも可能であろう。(RPPⅠ592 、佐藤訳、 cf. Z715)

 『論考』の「名」に類比できそうな、このような名詞の使用は、しかしながら、われわれの「生の形式」における言語と比較すれば特殊である。そのような使い方しかできないとすれば、それは一種の「精神の病」にも見えてくる。

その名をつけられたものがその場にあるAnwesenheitときしか、名辞を用いたり理解したりすることができなくなるような精神の病を想像せよ。(RPPⅠ591、佐藤訳、cf. Z714) 

 自分の過去の思想を「病い」として突き放して見るかのような態度は、いかにもウィトゲンシュタインらしい、と言うべきかもしれない。

しかし、そのような言語こそが本来的に機能する言語である、という観念は、さまざまな機会に忍び寄ってくる。それから離れることは容易ではない。たとえば、言葉が意味を失わないためには、指示対象の表象Vorstellungに伴われていなければならない、とする考え。

文を使用するとは各々の言葉に対して何かを想像するvorstelleことだ、という考えから人は縁が切れないのだ。(・・・)それはまるで、ある人が私に発行することになっている雌牛の引渡書がその意味を失わないためには、常に雌牛の心像Vorstellungをそれに伴わせなければならない、と信じているようなものだ。(PI 449、鬼界訳)

 3.

ただし、①志向される対象が「存在」ないし「現前」する場面でのみ、その志向的態度を表明する文に意味がある、と考えるか、あるいは、②それ以外の場面での表明にも、非本来的であるが意味があるとみなすか、は、やはり大きな違いだろう。

大雑把に言えば、『論考』の「名」の意味論は、①の例であり、前回、「できる」に関する「純粋な」立場、と呼んだものは②の例である。

 ※対象の「存在」や「現前」や「想像(表象)」によって意味されていることにはさまざまな揺らぎがあるだろうが、その問題にはこれ以上立ち入らない。

 

4.

 上の問題に関連して、志向的態度(状態)を表明する言語ゲームに、様々な程度の違いがあることに注目したい。

まず「意味する」を例に取ろう。

「私は、‘ヒミコ’ で、邪馬台国の女王を意味しています。」― 仮に、後の研究によって「卑弥呼」の実在が否定されたとしても、「私」が、無意味なことを話したり書いたりした、ということにはならない。

そこで、「この世」での実在/非実在にかかわらず、言葉の意味する対象が、「観念の世界」に存在しなければならない、といった発想が出てくるかもしれない。「ともかくも、‘ヒミコ’の意味するものが存在しなくてはならない」と。

 

ここで確認したいのは、「私は ‘・・・’ で・・・を意味しています」を使う 意味の説明の言語ゲームにおいて、自分が「意味しているということ」を疑う言明は、通常含まれていない、という事実である。「私は、‘チョゴリ’ で、K2 を意味しています。でも、それは疑う余地もあります。」― 間違いの可能性が、「K2がチョゴリと呼ばれる」ことに関わるのでなく、「私が意味している」ということに関わるのであれば、この言明は意味不明である。そのような言明は、意味の説明の言語ゲームには含まれていないのだ。

さらに、この言語ゲームには、自分の「意味する対象」を疑う言明も含まれていない。「私は、‘チョゴリ’ で、 K2 を意味しています。けれど、よく反省してみると、エベレストを意味している可能性もあります。」という発言は意味不明である。

それゆえに、「私が意味しているということ」および「K2 が意味されているということ」は、絶対的に確実な事実として受け取りたくなる。さらに、「私が意味している」こと、「K2 が意味されている」ことが確実であるなら、「私が意味している何か(ここでは、K2)」が確かに存在しなければならない、と結論したくなる。

しかし、これは「意味する」行為や「意味されている対象」の確実性というより、言語ゲームの構造から生じる確実性と言うべきではないのか。(cf. PPF332「確実さの様態は言語ゲームの様態である。」)

(逆に、我々とは全く異なった「生の形式」の上になら、自分が「意味しているかどうか」疑うことのできるゲーム、自分が「意味しているもの」について疑うことのできるゲーム、を考えることも可能、かもしれない。)

 

このような言語ゲームの構造に由来する特徴(ウィトゲンシュタインが言うところの「文法」)をもとに、「記述」に関する先入観が誤解をもたらし、哲学的混乱が起きる― ウィトゲンシュタインは、そう見立てたかもしれない。

 

対して、「私は・・・できます」という発言には、自分自身によって疑いを差し向けることが可能である。

また「Aができる」という発言に対して、現実は「not A」だった場合に、「Aができる」という発言に関する評価は様々であり得る。(ここは重要なところだが、今、検討はできない。『探究Ⅰ』§182を参照。)

 

「望むwünschen」の使用は、ある種の分岐をはらんでいる。通常、望まれた対象に関する疑いは、言語ゲームの中に入ってこない。しかし、特定の場合には、「何を望んでいるのか、本当のところ、自分でもわからない」のような言い方がなされる。

我々は生まれながらの性質と特定の訓練・教育によって、特定の状況で望みの表出を行うようになっている。(言うまでもないが、そうした「状況」が望みなのではない。)このゲームで、自分が何を望んでいるのかをそれが満たされる前に知っているのかどうか、ということはまったく問題にならない。(・・・)

その一方で「望む」という言葉は、「自分が何を望んでいるのか自分でもわからない」のようにも使われる。(PI441、鬼界訳)

さらに、「信じる」の使用においては、「信じる」という行為自体をめぐって分岐が生じる。多くの場合では「意味する」に似て、「自分が信じている」という事実に自分自身が疑いを向けることはナンセンスである。他方、「自分が信じている」ということ自体を内省等によって問い直し、見つめなおす場合も存在する。

「自分はこれを信じていると、君はどのようにして知るのか?」と問うことに意味はあるか?― そして、意味があるとして、「内省によって」というのが答えなのか?

そのように言える場合もある。しかし大抵の場合、そのようには言えない。(PI587、鬼界訳)

「愛する」の場合、そのような問い返しは一般的にナンセンスではない。そのことが「愛する」と「好む」とを隔てている。

「僕は本当に彼女を愛しているのか、そのように自分に思い込ませているだけなのか?」と問うことに意味はある。そしてこの内省の過程は、様々な記憶を呼び覚ますことであり、ありうる様々な状況や、しかじかの場合に抱くであろう感情Gefühleを想像して呼び起こすことである。(PI 587、鬼界訳)

 もちろん、以上のことは、特定の文化的環境において成り立つことがらである。ここで言うような「愛する」や「信じる」が、どの時代のどの文化においても概念として認められ使用されていたわけではないだろう。